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「分別」を忘れて、ただただ自然の中で呆けよう
ALOHA! みゆひょんでーす♪
軽々しく論じられるような話でもないので、話半分ぐらいに聞いてね。いわゆる科学とか資本主義とかが一大発展したのは、主客二元論という、ある意味シンプルな哲学の恩恵だったと言われてる。主体と客体、つまり自分とそれ以外、あるいはするものとされるものみたいな区別をすることで、ものごとを考えていく。科学の基本姿勢よね。それがたくさんの恩恵を人類にもたらしたのは否定できない。
ただ、限界が来ているかどうかはわからないけれど(実際、科学や資本主義の限界を主張する人が増えている気はする)、こういった「合理性」みたいなものに多くの人が疲れ果てているという気もしない? わたしは、します。
というか、わたし自身は疲れ果ててるのよね。IT関連のライターをしていながら、こんなことを言うのはどうかしら(お仕事なくなるかも・・・)と思うのだけど、生成AIとか何かしんどいなと思うときがあるの。デジタル・トランスフォーメーションの推進が日本企業には必要などと主張しつつ、デジタルって突き詰めたら0と1、つまり二元論の極致なんだよねと思う自分もいる。
「オイラは疲れ果ててなんかねえぜ。デジタル・フロンティアを開拓していくカウボーイなのさ」って人は、全然いいのよ。がんばって! 「わたしは疲れた。癒やされたい」って人だけ続きを読んで。
禅では無分別がよしとされる
よく「あの人は分別がある」って言う。これって、「あの人は、道理をわきまえた人だ」という褒め言葉だよね。ところが禅というか仏教では、「分別」というのは、あまりいい意味ではないの。
「分別」自体は、「対象を思惟し、識別する心のはたらき。すなわち普通の認識判断作用をいう」(『岩波仏教辞典』)といったニュートラルな意味なのだけど、「凡夫」の分別は、「主観によって組み立てられた差別相対の虚構の認識」(『岩波仏教辞典』)に過ぎないのね。
冒頭の、「主客二元論」に基づく認識が分別であり、その認識に基づく智慧を「分別智」と呼んでいて、あまりいいものとはされていないの。主客二元論を超越することが求められていて、主客二元論を超越した状態を「無分別」、その状態での智慧を「無分別智」と呼び、こちらをより良いものと考えているわけ。
見るもの、見られるものという立場を捨てて(要するに主客を分けない=分別しない)、ものごとをありのままに観る――かなり難しそうなことだけど、これが無分別。
無分別は、「インド-中国-日本」へと伝わってきた、ある意味「東洋思想」の特徴と言えることで、そのせいで「近代科学」「資本主義」という観点では、西洋に遅れを取ってしまったという負の面は確かにあると思う。
ただ、科学や資本主義が悪いとまでは言わないけれど、この20年ぐらいで行き詰まりが顕著になっていると、わたしは強く感じている。
少なくとも精神的な面では、何が正しいかよくわからずに行き詰まって、苦しんでいる人が増えているのは間違いない。そんな困難な時代を生き抜くのに、「無分別」というのは一つのヒントじゃないかと思うの。
キャンプを楽しむには「無分別」になる
一般的な意味では、無分別というと、「思慮がなく、軽率なこと」と捉えられるから、以下、仏教的な意味での分別と無分別をカッコでくくることにするね。キャンプ場で無分別に――なんて書くと、ゴミを分別しないで捨ててもいい、みたいに捉えられかねないし。
最低でも月1回ぐらいキャンプに行くと、快適な日のほうが少ないもの。まず7月~9月は暑くて、虫だらけ。12月~3月は虫がいないけど(でも、今年は12月2日に蚊がいたの!)、寒い。不快だから、お盆を除いて、キャンプ場は比較的空いている時期。なら、春と秋ならいいかと言うと、天気が良ければいいけれど、雨や風の日も多い。
仮に毎月キャンプに行ったとして、本当に快適な日なんて年に2、3日あるかないか。そもそもキャンプに行くこと自体が無分別(これはカッコなしだから一般的な意味)な気がする。
だったら積極的に「無分別」(これはカッコ付きだから、仏教用語)になればいい。
自分のしたいことと向き合うことで、わたしはしあわせになれたと思っています。わたしの生き方を知って、ちょっとでも癒やされる人がいればいいなあという気持ちで書いています。スキやフォローは本当に励みになりますので、よろしくお願いいたします。