ごくり、と飲み干したあとに。
書くことが苦手だ。
学生のころの交換日記や宿題、少し大きくなってからやらされた小論文などもちろん、このころから好きで“書いた”ことはない。
ただ、必要があれば!向き合う機会は数えきれないほどあった。
“しなければならない”と“面倒くさい”が気持ちの大半を占め、苦手という気持ちで向き合ったことはない。
“必要があれば”
きっとこの表現は、わたしの人生の大きな意味を持っている気がする。
今日、学生のころからの仲で同じ職場で働いている友人が退職する。
故にきっとわたしは今、センチメンタルに酔いしれたいのだ。今ならきっといい歌詞が書けるだろう。
それは誰が聞いても“恋愛ソング”だが、「実は友人との別れの歌なんです」とテレビのトーク番組で話す様子が容易に想像できてしまうほど。
わたしの脳内では、センチメンタルな雲がぷかぷかと増えつづけていて、今にも雨が降り出しそうだ。(なんそれ)
“必要があれば”書いてきた過去の言葉たちは、読み返すには恥ずかしくましてや共感なんてできないものに違いない。
だってきっと、とてつもなく薄っぺらで、当たり障りのない、
“見る人のため”に書いたものだろうから。
SNSにこれを書くなんてことも、デジタルタトゥーになりそうで書き記す気にはなれなかった。
これは書く人を否定してるわけではない。
「基本的にSNSは見る専門なんです」という立ち位置のわたしにはそれほど身近なものだと思えなかったからだ。
言葉どおり、社会的なネットワークを築くためのサービス。
TwitterやInstagramではなく、いまわたしがこのnoteに書き記そうとする言葉たちはぜひ、わたしにとって見られることに意味があるものではなく、書いていることこのものに意味を持つものになってほしい。
関西人がこういうときに標準語を使ってしまう気持ち悪さは、やっぱりその世界に酔いしれているからだ。いや、酔っぱらっているから仕方ない、と捉える方が正解かもしれない。
素面になったとき「ばかサムイやん、記憶なかったじゃ済まへん」となってしまう可能性はほぼ100%。だが「これもネタになる」という可能性もほぼ100%。
だから今、いざ、センチメンタルに体を預けてみよう。