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365日写真を撮るということ

2022年1月1日。
1年前のこの日、ほんの軽い気持ちで立てた“目標”がある。

「毎日GRで写真を撮って、1日1枚、その日に撮った写真をTwitterにあげる」
そのシンプルなルールに、一体どれほど苦悩させられたのだろう。

昔から、地道にコツコツと物事を続けることが苦手だった。
進研ゼミは本を開いた形跡もないし、夏休みの一行日記は8月21日くらいにプリントを探すところから始まるタイプ。そもそも、進研ゼミって本だったのかな。それすら覚えていない。

そんな私が、よりによって「毎日〜〜をする」という目標を掲げてしまったのだから、今考えてもどうかしていたのではと思わざるを得ない。

「一体どれほど苦悩させられたのだろう」と書いたが、これは心からの言葉である。
一方で、その苦悩と引き換えに、この365日で得たものが確実にあったと感じている。
それらを暑苦しく語っても仕方が無いので、まずは、この#gr365で記録した写真の一部を振り返ってみる。
noteは初めて使うのだけど(当然、こういう風に地道に書くのは苦手事)写真を365枚貼るのは多分無理だと思うので、一部、で。



記念すべき1枚目。#001である。これから大変だからな、とこの日の私に言ってやりたい。
東京に雪が降った。東京駅の正面にはカメラマンがたくさんいて、お気持ち程度にしか降っていない雪に懸命にストロボを焚いていた。そちらは皆さんに任せることにした。
最初の2週間、なんとか「作品」を撮ろうとしている自分がいた。この日は「生活」を収めてみる。撮っていなければとうの昔に忘れ去っている「お昼にデリバリーのマックを食べた日」も、なぜか愛しく思える。10年後にこれを見たとき、どう感じるのだろう。
毎朝の通勤電車で、窓の外を見ることなんてなかった。
写真を撮っていなければきっと一生気づくことのなかった燦めきに、思わず目を細めた。
故郷の福島を新幹線の車窓から撮った。山の方は雪なのだろう。冬の福島らしい空に懐かしさを覚える。ふと、こうして「帰省」することは、この先あと何回あるのだろうと思う。
桜の蕾がほころぶ頃、名残雪が埼玉に降る。季節は混じり合いながら進んでいく。
知らない土地なのに感じる懐かしさのようなものがある。旅先での出逢いは本当に一期一会だと思う。それらを全部は覚えていられないから、カメラにも一緒に見ておいてもらう。
なんかいいな、と思って撮ったし、いまでもなんかいいなと思う。ふうん、と思われてもそれで構わない、自分が気に入ってるのだから。


忘れもしない、この日は会社の入館証を無くした。駅や交番を回って、疲れ果てて、リビングの天井を撮ることしかできなかった。壁や天井を撮るのはどうしてもの時の切り札だったのに・・・。まだ1年の半分も過ぎていないじゃないか。無くした入館証は後日、会社の印刷機の裏から出てきた。
夏になり、今年も200日が過ぎた。この日、初めて「苦しい」とはっきりと言葉にしたのを覚えている。苦しいけれど続けているのは、やっぱり写真が好きなんだな、とツイートしたはず。苦手なコツコツ続けること、が写真ならできるのかもしれないと思う。
#gr365を始めて一番の危機に瀕する。コロナ陽性になってしまった。1日のほとんどをベッドの上で過ごす。こんなことでは、素敵な写真もへったくれもない。ただただ病人の食事の記録が積み上げられる。美味しかった夕張メロンのこと、ずっと忘れない。
街を撮るのが好きだ。とくに渋谷が好きだ。地方出身者からすると、ものすごい勢いで壊され、創られていくこの場所は何度来ても面白い。ただシャッターを切るだけで、その写真はタイムカプセルになる。20年後に掘り返さなくても、2年後にこの写真は「懐かしい」になってしまうなんとも恐ろしい街である。
人間、勝手なもので、次々と創り変えられる街を面白いと言ってみたり、再開発されずにずっと残って欲しいと言ってみたりする。ここは後者。人も物も場所も、永遠はないことは大人だし知ってる。それに抗うように写真に残す。


世間が何百年に一度の天体ショーに沸いていた。例に漏れず私も、カメラ片手に空を見上げる。このカメラは望遠がないので、こんなに小粒でしか写らない。でもそれは確かに真っ赤に輝いていた。
薄々気がついていた。鳩が好きだ。彼らの、何も考えていないようで少し考えていそうな絶妙な態度に、目が離せない。見返すと鳩が写っている写真が結構ある。こんな気づきまで得るとは。鳩がいっそう丸々とする頃、#gr365にも終わりの日が見えてきた。
冬、ちょうど起きるくらいの時間になると、東の窓から差しこんだ朝日で部屋が黄金色に染まる。大したことじゃないけれど、結構好きな時間だ。こんなささやかな喜びがここにあったことを、メモに書き留めるように写真を撮っている。
かつての私は、冬といえば雪景色でしかなくて、南関東とはなかなかにつまらないところだな思っていた。冬の澄んだ空と、枯れ草の柔らかなベージュ色が美しいことは、この土地が教えてくれた。


大晦日、365日目。これを続ける間、ずっとこの日に何を撮るのだろうと思っていた。365日目はなんだろうね、といろんな人から声をかけてもらうこともあった。いざ選んだ1枚は大晦日らしくも、フィナーレらしい華やぎもない、いつもの朝だった。なんなら、低い雲で太陽が隠れていて、この土地の冬にしてはずいぶんパッとしない朝である。始めた頃、日々の中に何か特別な瞬間を見出して、365枚に収めていこうと気合たっぷりだったけれど、良い意味でだんだんと力が抜けていった気がしている。だから他の人が「なーんだ」と思おうとも、私にとっては、この写真は「最後の一枚」に相応しい写真なのだ。


365枚ある写真からほんの一部を振り返ってみた。
ここまで書き終えてわかったけれど、撮ったときの感情やその日の出来事というのを、自分でも意外なほどに覚えているものである。ここでは取り上げなかった写真も同じように覚えている。
人は、なんでも「思い出せないだけ」であって「忘れること」はないと聞いたことがあるが、もしかするとこういうことなのかもしれないな、と思った。

最初にこのnoteを書こうと思ったとき、毎日写真を撮ることで得られたことを、覚え書きの意味も込めて書いてみようかと思っていた。
ただ、いざ書こうとするとなかなか取り留めもないというか、言葉にすると野暮ったい感じがしてしまうし、第一、この年の瀬にわざわざ読みに来てくださっている方には、たいそうつまらない話になりそうなのでそれはやめることにした。

なので細かいことは書かないけれど、365日写真を撮ること、を終えた私は、365日前の私がまだ知らない気づきや感情、写真との向き合い方を抱いていることは間違いなさそうである。
結論を言うと、やってよかった。やり通せて、よかった。
まわりまわって、こんなシンプルな感想になっちゃった。でもほんとによかったんだ。



初めて書いたnote
拙くて長い文章をここまで読んでくださってありがとうございました。
今年ももうあと何時間。
皆様どうぞ良いお年をお迎えください。

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