言葉にする重みを勝手に感じている
最近、SNS上でも、写真展などのリアルな場でも、誰かの作品を見て何かしら言葉にして感想を伝えることの難しさを、勝手に感じてしまっている。
スナップを好んで撮るようになってしばらくした頃に、いわゆる「他己紹介」的な場面で「綺麗な写真を撮る人」と紹介してもらったことがあった。
普通に嬉しい言葉だし、見てくれていてありがたいなと思った。だけど、嬉しいはずのその言葉が、喉に引っかかった小骨のように、ささやかな存在感を私の中でずっと放ち続けていた。
最近になって、もしかしたらこういうことかな、と思ったので、忘れないうちにnoteに書き留めておこうと思ったのだ。
この1〜2年ですっかりスナップ写真好きになった私は、日々の暮らしの中で、その時その瞬間の自分の感情を写真という媒体を使って残そうとしているのだと思う。
だから、そういう役割を与えられた写真は、できる限り作り込まれない方がいいし、ありのままがいいんじゃないかと思っている。
(もちろんあえて作り込んだりこねくりまわしたりするものもあるけど、スナップ写真の前提としてはっていう。)
だから、その前提と「綺麗な写真」という言葉がどうにもぴたりとフィットしなくて、嬉しいはずなのに嬉しいんだっけ私....みたいな、大変面倒臭い感情を持ってしまったのかな、と。
自分なりにもやもやを言語化することで、なんとか消化できそうな感じまで、最近になってやっと漕ぎ着けられたところである。
自分で言うのもアレだけど、たぶん、実際に「綺麗な写真」も撮れてるんだと思う。(自分で言うのもだけどちょっと一旦見逃して)
そして、そういう作品を見てくれたから、その言葉を私に贈ってくれたのだと思う。
ただ、たまたま、本当にたまたま、最近はもっぱら「作り込まないスナップ」がマイブームになっていたから、「作り込まないのがいいはずなのに、作り込み過ぎちゃってるのかな。撮りたいのってそれでよかったんだっけ.....」という具合に、するりと飲み込めないままになってしまっていたんだなと。
念押しするけれど、他己紹介してくれた方は全く悪くなくて、勝手に私が1人で迷宮入りしていただけなのでそこは何卒。
ここまできて表題に戻るのだけど、
こんなことがあったので、最近は誰かの作品に言葉をもって気持ちを伝えることにちょっと緊張感を持ってしまっている。
誰かから貰った言葉って、ちゃんと自分の中に残るんだな、と思って、自分が伝える時には「責任」みたいなものまで感じていたりする。大袈裟だろうけど。
そうするとついつい、スキとステキを多用してしまって、ああ、なんかうまくこの気持ち伝えられないなあ~って、ちょっと悩んだりしている。
何か具体的な感想を私から言われたことがある方へ、頑張って伝えてみたことだけど、もし、なんか違うなあと思ったならごめんなさい。
このnoteに面白いオチや学びのある結びはないです。ただ、備忘録として。
終
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