ことばさがしをする女性の美しさを思う。
美容系インスタグラマーさんが、IGTVでTHREEのマスカラを勧めていて、「すごく大人っぽく仕上がります」と言った後に、やや間があって、
「大人っぽいって‥なんだろ‥‥えっと、繊細で‥‥うん。繊細で上品な仕上がりになります。」
と言い直していたのだけど、その考えながら言葉を紡いでいく姿がとても印象深くて、心に残った。
私は会話の中で言葉を探して立ち止まりながら、丁寧に伝えようとする女の人の姿がとても好きだ。自分の中の感覚の端っこを捕まえて、言葉と繋げようとする、その、しばし言葉の世界に下りていく姿が、とても美しく見える。
どうして美しいと感じるんだろう、と考えてみたのだけれど、
言葉を探している瞬間その人は、「伝えたい」という思い只ひとつを今此処にいる他者へと繋げながら、同時に此処にはいないどこかに旅立っている、つまり、メディテーショナルな状態に入っているということがまずあって、
その状態に至る、もしくは至った際に浮かび上がる表情の純度がとても高いからなんじゃないか、と。
というのも、その瞬間(それがたった一瞬だったとしても)のその人は、他者のために作られた表情から解放されていると思うんです。
ことばをさがすその行為に没頭する。それってとても敬虔だから美しい。
何に対して敬虔かというと、心に対して。
頭だけが賢しく動いているのではなく、脳よりも高速度で本當のところを感知しているはずの心の声を脳が懸命に聞き取って言語化しようとしている、それは純度100%の謙虚な行為で、故に静謐で、且つ、伝えるということへの真摯な眼差しひとつで世界と繋がろうとする、そこに哲学的な健気さが立ち上がっているが故に、美しい。
なんだかずいぶんと大げさになってしまったけれど、でも私の中でそんな感覚が広がるのです。
フィレンツェのサンマルコ修道院にある、フラアンジェリコの受胎告知を見た時の感覚に、似ているかもしれない。
清新な空気に満ちたその場に立った時、「ああ、こういった宗教画全てがたとえフィクションであってプロパガンダであったとしても、今この瞬間、私はフラアンジェリコのおかげで大脳のおしゃべりを止めることができ、心という詩人に完全サレンダーできています」
と思ったものです。
今思えば、それって「祈り」の状態だったのかもしれない。
純粋に一生懸命な女の人って、しかもそれが、目の前にいるあなたに伝えたいからこその「ことばさがし」に懸命になってるって、
そうか。目の前にいる人への祈りの、その最善の形を探しているのかもしれないな。