修験道場としての浅間山
浅間山の別当「真楽寺」
修験道場としての浅間山は役行者(えんのぎょうじゃ)が持統天皇九年(695年)に浅間山に登拝したのが始まりとされています。
役行者(役小角:えんのおずぬ)は修験道の開祖とされる奈良時代の呪術者であり、役行者が登山して地蔵堂を建立したという言い伝えがあるそうです。
587年、当時大噴火していた浅間山の鎮火を祈願するために建立された真楽寺は、浅間山別当寺として浅間登拝の足場となり、修験の根拠地となりました。
本来、お寺では、仏さまをまつり、神社では、神道における祭神・神の拠代として、自然の造形物(浅間山)を神に見立てて遥拝しており別物のはずです。
真楽寺では、神社の祭神としての浅間山を仏の権現(本地仏)であるとみなし、本地仏に手を合わせることで、神仏ともに崇拝することができるとしています。
浅間神社
このあたりにはいくつか浅間神社がありますが、日本山名辞典に記載のある浅間神社は、追分にある浅間神社です。
そして、そこから修験者の登山が行われたようです。
浅間山信仰
浅間山中腹の溶岩ドームでできた山である石尊山(せきそんさん)には座禅窟があり、追分宿登山口から石尊山山頂を目指すコースでは、4時間半程度で往復出来るそうです。
そのコースは、最初は整備された平坦な林道を進み、その後、赤褐色の水が流れる濁川(水が常に赤く濁っているため「鬼の洗濯川」とも呼ばれる)沿いを進みます。その先には血の池・赤滝・座禅窟の奇勝があり、何体かの石地蔵も安置されているそうです。
行ったことがないので、いつか訪ねてみたいと思います。
弁財天神社
近くには水の神様である弁財天神社の祠もあり、そこに池があったと思われます。埋もれてしまった池で、かつて行者が修験が行ったのではないでしょうか。
今は火山活動のため、山頂には登れないのですが、火口付近でも登拝されていました。
『浅間山噴火』渡辺尚志著にこんな記載があります。
もうひとつの別当「延命寺」
修験の根拠地として、山の南側に真楽寺、北側には延命寺がありました。
しかし、延命寺は天明三年の浅間山大噴火によって鎌原(かんばら)村とともに流滅しました。
『上州 浅間嶽 虚空蔵菩薩略縁起』によると、延命寺は、第56代 清和天皇の第3皇子 貞元親王4代の孫、鎌原石見頭(いわみのかみ)源幸重がこの地に住みつき、長暦三年(1039年)に建立したものとのこと。
鎌という字はカバネという意味もあるらしく、鎌倉はカバネを捨ておく暗い土地・クラだったとの説もあります。鎌倉由来の武士の鎌原氏の村が土石流に埋もれてしまうとは何とも数奇な感じがします。
埋もれた延命寺の発掘調査は、昭和55年に行われました。詳細な記録が『天明三年浅間大噴火 日本のポンペイ鎌原村発掘(大石慎三郎著)』に書かれています。
実際に現場で作業をしていた大石氏による本なので、発掘当時の苦労が生々しいです。
昭和55年の発掘時は仏像・仏具がでてきただけで、延命寺の全面発掘ではなかったそうです。土に埋もれてしまった延命寺がどこにあるのか正確にはわからなかったのです。
そして昭和57年に再開。
今度は、地元の人が”地面下に寺院らしい大きな建造物が埋まっていて、それが朽ちて陥没した”という伝承のある土地を発掘したとのこと。
その年は、台風による倒木で交通が遮断されたり、掘った穴が水浸しになるなど災難が続いたそうです。
しかし、ついに延命寺本堂の中心部分にあったであろうと思われるものを発見することができたと述べています。
なかなか大変な調査だったことがうかがえます。
(とり)