女性蔑視とは
この世の中で起こっている全ての事を知ろうとするとこの大した処理能力のない脳みそで理解出来ることなどほんのひと握り。
ある事象に対する背景を知ろうとするとその向こうに広がるのは果てしない空ばかりで捉えようがない。
目の前に浮かぶ雲の切れ端を写真に撮って集めているだけのような作業。
それでも何もしないよりはいいのかな。
注意すべきはアプローチの仕方。ひとつの方向から見ただけでは全体像を捉えられない。身体全部を使ってぐるっと回ったりひっくり返ったり。
積んできた経験が正しいのか間違っているのか答えは出ないにしても価値がないわけではない。大事なのはなぜだろうどうしてこうなったんだろうと疑問を持つことだ。そこからスタートできるから。
さて、女性蔑視発言をしたとしてオリンピック役職を辞任した元総理大臣。
そもそも万人の理解を得られる言葉などあるのだろうか。ひとつの発言で誰かひとりでも不快だと思えばその言葉は毒になるのか。もともと傷ついている人には更にその言葉が追い討ちをかける。そんなつもりで言ったんじゃない。それもまた然り。
何の狙いもなく世間話程度に発した(と憶測する)言葉だったために事態は思いもよらない方へ広がった。
女性の社会参画が可能になってからまだ日は浅い。歴史はなぜ女性を表に出さなかったのか。優秀な人は山ほどいて政権を揺るがすような力を持った人もいたに違いない。女性だからといって捨て置かれたわけではない。ただ国を守り他国から攻撃を受けない力を維持していくうえで必要だった秩序が身分制度であり、女性はその中で戦いに備える男性を支えることが必然だった。けして女性が軽んじられたわけではない。そういう役目だったのだ。それはたぶん原始的な時代から変わらずにこの世界で続いてきて変わる必要もなかった。
ところが産業革命が起こり暮らしが変化してその役目が変わってきた。平等に与えられた時間の中で少しずつ差が生じてきて、誰かがそれを不満だと思いそう思う人がひとりまたひとりと増えて大きな集合体となったとき社会は変わらなければならない。そうして少しずつ変革を重ねて男女は平等でなければならないと掲げられるに至った。
男のくせにとか女のくせとかいう言葉を使うととやかく言われる時代になったけど、ついつい使ってしまうことはある。まして公人ならそこに配慮のない言葉を用いた瞬間に人としてのあり方が問われ、スピードをもったこの社会で失格者の烙印を押されることになる。
そこには無意識に存在する人それぞれの男女の違いに対する認識があり、育ってきた環境や経験が影響しているのは確かだ。男女平等を唱える歴史においてはまだまだ黎明期。長らく浸透してきた意識が20年30年で変わることは難しくもある。
言葉の持つ力は人によって百にも千にもなる。千の力を持つ人は軽口さえ叩けないのか。しゃべるたびにコンプライアンス委員会にお伺いをたててOKが出るのを待っていたらそもそも会話が成立しない。
力のある人は自己研鑽して自信を持った発言をするほか無いのだ。そのへんにいるおじいちゃんが、おばちゃんがたくさんいる集まりじゃ話が進まなくて困るよねと言っても笑って済ませられることが千の力を持っていたばかりに四方八方からの批判を浴びることになったのだ。確かにその場にいたとしたらちょっとカチンときていい気分はしなかったかもしれないけど、ああまた言ってるよぐらいで見過ごす件。
たまたま発した言葉が無意識の中に潜む男女不平等感だったため、女性蔑視のつもりはなかったけれどもオリンピック精神に抵触すると見なされ辞任するに至ったという話だ。
国を動かしてきたような人物こそ自分の発言に責任を持たなければならないのにそういう意味では公人失格だ。
意識の変革のために必要な過程であったとしたら、起こるべくして起きた問題なのかもしれない。
ただそれを女性蔑視と言うことには違和感がある。それこそ差別を助長している感じが否めない。もともと命に差はないし男女ではなく人としてどうかと言うことだ。時間は平等に与えられている。