文字を持たなかった明治―吉太郎105 祖父と孫①クリスマス

(「104 孫娘」より続く)
 明治13(1880)年鹿児島の農村に、6人きょうだいの五男として生まれた吉太郎(祖父)の物語である。

 昭和35(1960)年に初孫の男児が、2年後には孫娘が生まれた。吉太郎自身の生活に大きな変化はない気がしていたが、小さい、それも戦後生まれの子供が二人いて、やがてそれぞれが幼稚園に上がり、小学校に上がり……となるにつれ、「家」の雰囲気は吉太郎が長年思ってきた「家」の雰囲気とはかなり異なるものになっていった。

 だいたい吉太郎は、義務教育とは名ばかりで田舎の多くの子供はまだろくに小学校へ進まなかった頃に幼少期を過ごし、吉太郎もそんな子供たちの一人だった。学校とはどんなところか、何をするのか想像がつかないままだった。文盲でもちゃんと家庭を成したばかりでなく、人並以上に財産を築いた吉太郎と、毎日たくさんの本をしょって学校へ行き、帰れば学校での様子を両親に語る孫たちとは、同じ家の中にいても「接点」とでもいうべきものはあまりなかったと言っていい。

 吉太郎が孫たちにさほど感情移入しなかったのは、これまで何回か書いたような「子育てや子守は女のすること」という封建的な考えからばかりでもなかったのだ。いまのことばで言えばジェネレーションギャップであり、戦争を挟んだがゆえのカルチャーギャップも多分に含まれていた。

 そうやって、こまごましたことは女たちに任せているうちに、家の中の様子がだいぶ変わってきた、とも言える。明治22(1889)年生れの妻のハル(祖母)も年をとり、主婦としての働きは嫁のミヨ子(母)にだんだんと譲り、家事全般をミヨ子が見るようになっていた。もっともハルのやりかたを尊重しつつ、顔色をうかがいながら、ではあるが。ミヨ子は、子供たちの幼稚園や学校での生活とそこから派生する新しいコト、モノに触れてもいたから、家の中も自然その影響を受けるようになっていた。

 正月、盆、節句などの昔ながらの行事以外に、吉太郎が聞いたこともない行事も加わった。孫たちの学期ごとの節目と夏・春の長い休み、運動会や遠足といった学校の行事だ。それらは、吉太郎が一人息子の二夫(つぎお。父)を育てていた頃に多少経験したものではあったが、戦前のそれとはかなり様子が違っているように感じた。

 それに、アメリカのまねらしい西洋の行事も入り込んできた。代表的なのは孫たちが「クリスマス」と呼ぶものである。年の暮れといえば正月を迎える準備をしつつ正月をひたすら楽しみにするものだったのに、25日という中途半端な日に、何やらお祝いをするのだという。

 孫たちのために、二夫は作り物の木とそれに下げたりする飾り物のセットを買ってきた。数日前からその木を飾り付け、25日には鶏モモの照り焼きを食べ、食後には大きな丸い菓子を切り分けて食べる。菓子を着る前に下の孫の二三四(わたし)が幼稚園で習った歌を歌うこともあったが、英語混じりで意味はよくわからない。

 その、カステラに白くて甘いものが塗られた菓子は、中のカステラはいいとして、まわりの白いものがべたべたと脂っぽく、吉太郎はいまひとつ好きになれなかった。
「じさん、うんまかな?」(じいさん、おいしいかね?)
と二夫が気を使って聞いてきたので、「よぉ」(うん)とだけ答えておいた。
(「祖父と孫②」へ続く)

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