文字を持たなかった明治―吉太郎70 再会を喜ぶ

 明治13(1880)年鹿児島の農村に生れ、6人きょうだいの五男だった吉太郎(祖父)の物語を綴っている。

  昭和の初め、中年の再婚どうしで家庭を持った吉太郎。昭和3(1928)年生れの一人息子・二夫(つぎお。父)には百姓の跡継ぎとして早く仕事を覚えてほしかったのに、高等小学校から農芸学校へと進んだ。昭和19(1944)年、卒業も近かった二夫は、両親に黙って陸軍の少年飛行兵に志願。跡継ぎの安否がわからないまま日本は終戦を迎え食糧増産が叫ばれる中、吉太郎夫婦が日々の農作業に精を出していた頃。

 二夫はひょっこり復員し、吉太郎一家はもとの親子三人の暮らしに戻った。

 復員した二夫を出迎えた吉太郎夫婦、ことに吉太郎の反応は淡々としていたように描写した。そのときの細々とした光景を、吉太郎の孫娘・二三四(わたし)は聞かされたわけではない。吉太郎の性格や日ごろの行動からして、こうだったはずだと思ったのだ。

 ハル(祖母)に関しては、二夫を産んだときからまさに「目の中に入れても痛くない」ほど可愛がったようだから、戦中や戦後を描いたテレビドラマか映画さながらに、復員した息子をひしと抱き締め滂沱の涙を流す、というシーンであっても不思議ではないのだが、それもなかっただろうと思う。

 なぜなら、当時の日本人、ことに田舎の人たちは、自分の感情をあからさまにすることは少なかったからだ。とくに男性はそうだった。まるで見ていたように書いてしまっているが、二三四が子供の時分、明治生まれのご老人がまだまだ健在だった頃、周囲の大人たちが喜怒哀楽をストレートに表現することは少なかった。大勢のときに盛り上がることはあっても、個人としての感情表現は常に抑制されていたと思う。

 二三四はそんな大人たち――もちろんご老人を含む――を見ていて、それが「大人」で、「分別がある」ということなのだと理解し、自分もいずれそうあるべきと思いながら成長した。

 いつの頃からか日本でも、大人が「うれしい」「楽しい」「幸せ」と頻繁に口に出し、男性であっても――男女差別ですが――すぐに涙を流すのが普通になった。そのことを抑制が効かないとか、分別がないという人もいなくなった。むしろ、自分の感情に素直なのは「いいこと」だとされる。

 しかし、人間関係に束縛され、他人の目を気にすることが多い田舎暮らしという側面があったにせよ、昔の大人は「大人」だったと思う。自分の感情を軽々に表現することの、周囲への影響を考えていた。そして子供の頃からの訓練が、あけすけな表現を回避させたのだろう。

 だから吉太郎は「早く家に入れ」としか言わなかったし、最愛の一人息子で、家族しかいない場面であっても、ハルが息子を抱き締めることはなかった。おそらく、出征の朝も泣かなかったはずだ。

 とは言え、息子の復員を歓迎していなかったわけではない。むしろ逆で、心から生還を喜んだ。

 二夫が復員した夜は、毎日沸かすわけではない風呂をハルは早速沸かしたことだろう。井戸から水を汲んで薪で焚く五右衛門風呂だ。ハレの日用に保存してある食材で、ふだんより1、2品多いおかずも用意しただろう。吉太郎は吉太郎で、晩酌の焼酎を「お前もどうだ」と二夫に勧めたかもしれない。

 その死すら覚悟していた息子との、思いがけない再会を喜ぶ表現のしかたが、いまの日本人とは違っただけだ。

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