文字を持たなかった明治―吉太郎83 生活の楽しみ(ラジオ放送の内容)

 明治13(1880)年鹿児島の農村に生れ、6人きょうだいの五男だった吉太郎(祖父)の物語を綴っている。

 昭和29(1954)年に一人息子の二夫(つぎお。父)が嫁を迎えた。そのあとの一家の暮らしぶりを述べているところだが、生活の楽しみとしてのラジオについて触れたところで(ラジオ好みの番組)、ラジオ放送の中身について補足しておきたい。

 「ラジオ」で述べたようにラジオ本体は木箱のようで、大きさは縦横25cm、厚さは10 cmほどの柱などに掛けるタイプだった。戦中を扱ったドラマなどで、大きな木製の据え置き型のラジオから「玉音放送」が流れるシーンがあるが、吉太郎の家のラジオはあんなに大きくない。孫娘の二三四(わたし)は持ったことはないが軽量だったはずだ。

 これも前述したように、ラジオからはNHK第一放送しか流れて来なかった。そして朝7時と夕方7時、人びとが「町(ちょう)の放送」と呼ぶ役場からのお知らせが流れた。町主催の大事な行事、重要な住民サービスなどである。小中学校の運動会などのお知らせが加わることもあった。いまなら自治体のホームページや広報誌に掲載されていたり、SNSで配信されるような内容だ。

 「町」のお知らせのあとに社会福祉協議会からのお知らせが続くこともあった。この場合はほとんどが訃報で、「〇〇集落の誰それさんが某月某日亡くなりました」というもの。最後に必ず「香典返しの代わりに、社会福祉協議会にご寄付をいただきました」と結ばれる。つまり、葬儀にお香典をもらっても個別の「香典返し」はしないのが、町全体のしきたりになっていたのだ〈281〉。

 「町」のお知らせに続いて、集落単位のお知らせが流れることもあった。これは「分館長」と呼ぶ集落の世話役が、集落独自の行事やその場合の注意点などを知らせるものだ。多くは、集落民のほとんどに出てほしい行事や寄り合い、集落の共用部分の清掃や草払いといった共同作業の予定、参加の呼びかけだった。

 「町民運動会」が近づくとその練習の呼びかけも行われた。町民運動会には集落単位のリレー競争があり、小学生・中学生・青年・壮年それぞれの男女代表がリレーするのだ。練習の目的は走ることよりバトンパスのほうで、集落の道路の直線になったところで、パスの相手と繰り返しバス渡しの練習をした。昼間はみな学校や仕事があるので、晩ご飯あとくらいの時間を指定し、街灯の下で練習するのだった。

 放送の多くは吉太郎たち老人世代にはあまり関係がなかったし、関係がありそうなものがあったとしても、二夫や嫁のミヨ子(母)が把握していれば十分だった。一年四季にやるべきことは何十年も繰り返して頭と体に入っており、突発で必要なことは集落や親戚の誰かが教えてくれたし、二夫が家のことを見るようになってからは二夫が教えてくれることを聞いていればよかったのだから。

〈281〉ただしこれはある時期までのことで、経済発展に伴い冠婚葬祭にお金をかけ――別の言い方をすれば、地域のつきあいを人々の助け合いでなくお金に頼るようになり――、葬儀は葬儀社に任せるようになると、物理的な香典返しはなし崩し的に始まった。一方で社会福祉協議会への寄付は続き、参列者には香典返しを渡す一方、香典返しの一部を寄付する、という二重の行動が続くことになった。

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