文字を持たなかった明治―吉太郎78 息子の結婚

 明治13(1880)年鹿児島の農村に生れ、6人きょうだいの五男だった吉太郎(祖父)の物語を綴っている。

  昭和の初め、中年の再婚どうしで家庭を持った吉太郎。昭和3(1928)年生れの一人息子・二夫(つぎお。父)には百姓の跡継ぎとして早くいっしょに仕事をしてほしかったが、上級の農芸学校まで進んだ挙句、卒業も近い昭和19(1944)年、両親に黙って陸軍の少年飛行兵に志願、入隊。幸い二夫は復員し、一家は親子三人の暮らしに戻った。

 戦後の食糧増産時代一家で農作業に励むうち、晩婚の吉太郎は70歳を超え、二夫の嫁取りは一家の重要課題となっていた。妻のハル(祖母)は自分の親戚筋で候補を考えていたものの、二夫は同じ集落の娘・ミヨ子(母)を気に入り、ついに正式に縁談を申し入れた

 仲人に相談して縁談をまとめてもらうのは、家長の重要な仕事だ。ハルがどんなに有能で世事に長けていても、ここは「嫁」が出る場面ではない。人付き合いがいいとは言えない吉太郎は気が重かったかもしれないが、その役目を果たさざるを得なかっただろう。あるいは本家筋の誰かにお願いして、同行してもらったかもしれない。

 ともあれ、話はまとまった。

 いうまでもないが、元は二夫自身の希望であったとは言え――ハルにはほとんど「わがまま」と思えた――、縁談をまとめる過程において結婚当事者である男女の出番は、ない。双方の両親の意向が確認されれば、あとは慣例にしたがって、結納そして婚礼の準備が粛々と進められた。

 そして昭和29(1954)年3月10日、吉太郎の屋敷で二夫とミヨ子の婚礼、鹿児島でいうところの「ごぜむけ(午前迎え)」が執り行われた。いまでいう人前結婚だ。日本の田舎の結婚式は地域のコミュニティに披露することが重要な目的で、夫側の住まいに関係者――親戚とご近所、それに地域の有力者――を集めて、二人の関係を認めてもらうことで結婚が成立したようなものだった。

 そのもようは、ミヨ子の半生を綴ってきた「文字を持たなかった昭和」の「三十二(結婚披露)」で述べている。若い頃の貯金でミシンを嫁入り道具にしてきたミヨ子を、吉太郎夫婦はもちろん、列席した親戚たちは眩眩しそうに見ていたかもしれない。ある意味新しい時代の新しい夫婦の誕生でもあった。

 3月20日生れの二夫は26歳になる直前、ミヨ子はこの日が24歳の誕生日だった〈279〉。当時の感覚で言えば二人とも適齢期だ。ミヨ子は田舎のお嫁さんとしては遅いくらいだが、働きに出ていた紡績工場でかかった結核の療養に期間を要したことを考えれば、結婚がやや遅れたことはやむを得なかっただろう〈280〉。

 ちなみに1955年の結婚年齢の平均(初婚)は、男性26.6歳、女性23.8歳のようだ。参考にした資料中、第二次世界大戦期および戦後数年間の記載がなく、データ収集が困難だったことが窺える。

〈279〉二人とも実年齢は戸籍より1歳多い。「文字を持たなかった昭和 ひと休み(戦前の出生届)」ご参照。
〈280〉ミヨ子の結核については「同 二十一(夢半ば)」で述べた。
《参考》
国立社会保障・人口問題研究所>全婚姻及び初婚の平均婚姻年齢:1899~2004年

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