文字を持たなかった明治―吉太郎46 自給自足(竹製品)

 明治13(1880)年鹿児島の農村に生れ、6人きょうだいの五男だった吉太郎(祖父)の物語を綴っている。

 昭和の初め、中年の再婚どうしで家庭を持ち、妻ハル(祖母)、ひと粒種の男児・二夫(つぎお。父)と三人暮らしの吉太郎は、働き者であると同時にかなりの倹約家だった。収入は自分で管理し、妻のハルにはほとんどお金を渡さなかったので、ハルは野菜を売るなど自分でやりくりするしかなかった

 そんな吉太郎一家はなににつけ自給自足をモットーとしていた。当時の農家はほとんどのものを自給自足でまかうのが当たり前で、吉太郎たちに限ったことでもなかったが、吉太郎はそれがかなり徹底していたのは確かなようで、何につけ出費を嫌った。

 日用品で自給自足できるものと言えば、鹿児島弁でメゴ、ショケと呼ぶ竹製の籠や笊の類がある。それらをきれいに編み上げてしまう器用な人も珍しくはなかったが、吉太郎はそれほど得意ではなかったようだ。家で使っていたメゴ、ショケの類に対して、孫娘の二三四(わたし)が嫁のミヨ子(母)から
「これはじいちゃんが作ったものだから大切にしないとね」
と言われた記憶はない。家の習慣としてあらゆるモノは大切に使っていて、そのほとんどに「曰く」があったから、吉太郎にちなむものなら言い伝えられていたはずなのだ。

 竹製品に関しては、ひとつ印象的なエピソードがある。

 一人息子の二夫が小学校の修学旅行に行くときのこと。二夫の年齢から考えると、昭和15(1940)年頃だと思われる。履いていく靴はもちろん持っていなかったし、吉太郎の編む草鞋(わらじ)は、前項で述べたとおり「お出かけ用」であり、子供に履かせるものではないと吉太郎は思ったのだろう。

 そこで吉太郎は竹製の草履を草鞋と同じように編んで作った。それがどんな姿だったのかは、二夫も亡くなったいまでは誰も知る人はない。ズック靴くらい、まして一人息子の修学旅行のときくらい買ってあげればいいのに、と考えるべきか。一人息子のためにわざわざ草履を編んでやった親心を佳とするべきか。

 そのときの二夫の気持ちについては、いずれ二夫自身について書く(であろう)ときに譲るつもりでいるが、吉太郎には「お金を出して靴を買ってやる」という発想がなかったことは確かである。

《参考》
【公式】鹿児島弁ネット辞典>めご
【公式】鹿児島弁ネット辞典>しょけ

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