文字を持たなかった明治―吉太郎80 「嫁」についての考え方
明治13(1880)年鹿児島の農村に生れ、6人きょうだいの五男だった吉太郎(祖父)の物語を綴っている。
昭和の初め、中年の再婚どうしで家庭を持った吉太郎。昭和3(1928)年生れの一人息子・二夫(つぎお。父)には百姓の跡継ぎとして早くいっしょに仕事をしてほしかったが、上級の農芸学校まで進んだ挙句、卒業も近い昭和19(1944)年、両親に黙って陸軍の少年飛行兵に志願、入隊。幸い二夫は復員し、一家は親子三人の暮らしに戻った。
戦後の食糧増産期一家で農作業に励む中、晩婚の吉太郎は70歳を超え二夫の嫁取りは家の一大事。自分の親戚筋から嫁候補を考えていた妻のハル(祖母)の意に反して、二夫は同じ集落の娘・ミヨ子(母)を気に入り、昭和29(1954)年の3月に結婚した。
そのミヨ子、というより「嫁」に対する吉太郎の考え方を、前項で縷々述べた。こういった「嫁」観は吉太郎に限ったことではなく、集落や地域のほとんどの大人――女性を含む――に共通していた。つまり戦中までの農山村――おそらく漁村も――社会に遍く浸透し、何世代にも繰り返され伝えられてきた考え方だった。そこで生きる人びとにとっては「それが当たり前」、そこから外れるのは「変わった人」のすることで、おかしく恥ずかしいことだった。その考え方やそれに基づく行動は下の世代にも伝播し、繰り返されてもいた。
ひとつの集落の中でももちろん貧富の差はある。しかしそれぞれの「分」に合わせて、共同体全体の調和を保つことはとても重要だ。一つひとつの家、構成員の一人ひとりに果たすべき役割があり、個人の考えを追求することより、役割を全うすることのほうが尊いとされた。
いや、「個」の意思や欲求を尊重するという考え方自体がなかったかもしれない。
人びとが長い時間をかけて培った慣習、その裏付けとなる考え方は、そうそう簡単には変わらない。戦後の高度経済成長期を経た昭和40年代であっても、共同体のしきたり、そこでの個々の役割はそうすぐには変わらなかった。
であればこそ、吉太郎より二世代下った孫の二三四(わたし)――吉太郎は晩婚だったから正味では三世代近く下とも言える――が、まるで吉太郎自身であるかのようにここnoteに書いているのだ。母親世代が、そして自分がどんな環境、認識の中で生きているのか、後に生まれた二三四はじっと観察していた。その後「世間のこと」をだんだん知り、大人になって社会問題や歴史について自分なりに学ぶ中で、人間のすることはそう簡単には変わらない、変えられないことを知った。
先に話題になったNHKの朝ドラ『虎に翼』では、敗戦後の新しい憲法が平等や人権尊重を謳っているのに、人びとの意識や社会が変わらないことに登場人物たちが憤る場面がしばしば描かれていた。このドラマはおもしろく観ていたが、敗戦による統治思想の転換というドラスティックな変化を以てしても、人びとの意識はそうすぐには変わらないだろうに、と思ったものだ。
その証左として、「いまだに」男女平等は実現していない。『虎に翼』はそれゆえに、あの時代と三淵嘉子という象徴的な人物を借りてまでも、女性の不利な立場、社会的弱者と呼ばれる人々に焦点を当てたのではないか。
二三四自身は、社会は変わらないとは思っていないし、変わってほしいものも多々ある。ただ、変わらないルールや価値観に安定、安心を求める人々の気持ちもわかる。吉太郎たちが、先祖代々営々と築いてきた社会と続けてきた慣習に依拠し、それを大切にしていたのも理解できる。封建的な「嫁」観を持っていたからと言って、吉太郎たちを遅れた、知的でない人々と見るのは妥当でないと思う。