文字を持たなかった明治―吉太郎52 息子の進学

 明治13(1880)年鹿児島の農村に生れ、6人きょうだいの五男だった吉太郎(祖父)の物語を綴っている。

 昭和の初め、中年の再婚どうしで家庭を持ち、妻ハル(祖母)、ひと粒種の男児・二夫(つぎお。父)と三人暮らしの吉太郎は、働き者であると同時に相当な倹約家だった。最大の楽しみは何と言っても一人息子の成長だが、小学校すら行っていない吉太郎は、息子を学校に通わせるより農作業を覚えさせるほうがはるかに役に立つ気がしていた。

 前年に日中戦争が始まり、世の中の雰囲気が少し変ってきた昭和13(1938)年。吉太郎一族の戸主・庄太郎が亡くなり、その長男・藤一が家督を相続したことを前項で述べた。実質的に独立していた吉太郎たちの暮らし向きには大きな変化はなかったが、順調に成長している二夫も5年生になり、尋常小学校を卒業したあとのことをそろそろ考える時期に来ていた。

 二夫は戸籍の上では昭和3(1928)年の3月生れだが、ほんとうは1年早い〈268〉。体は子供から少年に近づき、吉太郎からすれば、小学校を卒業したら一人前の百姓としていっしょに働くのが当たり前ぐらいに思っていた。じっさい小学校出で働くのはふつうだったし、家の手伝いなどで小学校すらろくに行けない子供もたくさんいた。自身は行ったこともない小学校を卒業できただけでも十分、というのが吉太郎の考えだっただろう。

 しかし、二夫は学校の勉強がよくできた。両親を助けて農作業をしながらも、成績はよかった。尋常小学校の先生は、「高等小学校であと2年勉強させてはどうか」と熱心に勧めた。

 倹約家、ひらたく言えばケチな吉太郎は、あと2年学ぶことの息子にとっての意義よりも、あと2年学費を払うことのほうが重要だった。なにより働き手が増えない。

 しかし妻のハルは学校の先生側に回った。若い頃に東京で奉公に出ていたハルは吉太郎よりもいくぶん、というよりかなり「世間」が広かったのだ〈269〉。
「せっかく勉強ができるのだから、上の学校にやりたいと思います。田畑の仕事はわたしが今まで以上に頑張ります。学費も、わたしがなんとかしますから」

 ――などと言ったという伝聞はじつはないのだが、働き者であると同時に勝気なハルは、夫に対してもそのくらいのことを言っていたとしても不思議ではない、とハルの孫である二三四(わたし)は思う。二夫は二夫で、「学校以外の時間で、家のこともきちんとやる」と言っただろう。

 結局ハルに押される形で、吉太郎は息子の進学を認めざるを得なかった。こうして昭和15(1940)年の春、二夫は高等小学校へ進学した。学校でどんなことを習っているのか、それが本人(や家族)にとってどんな「得」になるのか、文字が読めない吉太郎には、まったく想像できなかったに違いない。

〈268〉この話題は、吉太郎の嫁・ミヨ子(母)の来し方を含め、noteの中で度々出している。初出は「ひと休み(戦前の出生届)」。
〈269〉ハルの奉公については、ハル自身の物語の中で述べたい。

いいなと思ったら応援しよう!