文字を持たなかった明治―吉太郎60 戦時国債
明治13(1880)年鹿児島の農村に生れ、6人きょうだいの五男だった吉太郎(祖父)の物語を綴っている。
昭和の初め、中年の再婚どうしで家庭を持った吉太郎。昭和3(1928)年生れの一人息子・二夫(つぎお。父)には、尋常小学校を卒業したら百姓の跡継ぎとして仕事を覚えてほしいと思っていたが、二夫は高等小学校のみならず、上級の農芸学校へ進んだ。自前の土地を広げることが最大の喜びで人生の目的でもある吉太郎は不服だったが、二夫が新しい技術を学んで来ることは頼もしくもあった。
昭和17(1942)年春、二夫が農芸学校へ進学した頃には、戦時下での統制が目に見えて進んでいた。徴兵も目立ってきたものの、すでに60歳を超えていた吉太郎には関係ないことに思われた。
それよりも、戦争も悪い話ばかりではないらしいという噂を聞いた。なんでも「こくさい」という証書のようなものを買えば、国があとでたくさん利息をつけて返してくれるのだと言う。その仕組みを吉太郎はよくわからないが、戦争のために国民から広くお金を集めたいからだろう、ということはわかった。
それは「大東亜戦争割引国庫債券」(戦時国債)というものだった。債券の表に書かれた金額は「拾圓」(10円)だが、買うときに払うのは7円だという。7円払えば3円も利息がつく形だ。国が利息を保証するなら悪い話ではない――と吉太郎は思った。
しかし、国のほうは「上手」だった。国債の購入を、地域の共同体(都市であれば町会など)を通じて半ば強制的に購入するよう仕向けていったのである。田畑や山林を一代で買い広げ、地域では「分限者」(ぶげんしゃ)〈275〉と認識されていた吉太郎のところには、「ぜひたくさん買ってください」という要請があったことは、想像に難くない。
例えば役場勤めなどで、多少の教養があり世事に長けた人が「時局」をネタに国債がいかにいいものか、無学の吉太郎に説明することは訳ないことだっただろう。
あるいは、地域の「長」が上からの「要請」という名のノルマにしたがって国債を売るとき、長幼の序や地域での上下関係、あるいは横の関係を背景に、吉太郎に「要請」という名の「強制」を迫ることもまた、容易だったはずだ。なにぶん農村では人間関係、秩序が最優先される。
戦費捻出のために言わば乱発された国債は、敗戦と戦後のインフレによりほとんど価値を失ってしまったことは広く知られているとおりだ。戦後吉太郎も、紙くず同然となった債券を手に歯噛みをしたことだろう。
昭和30年代後半生まれの二三四(わたし)が、なぜわざわざここで戦時国債の話を書いているかというと、子供の頃――昭和40年代前半ぐらいだろうか――、沸かし風呂の焚き口に、戦車や軍艦の絵が描かれ「拾圓」と大きく書かれたお金のようなものが、たくさん置いてあるのを見たからだ。うち捨ててあった、と言ってもいい。
幼稚園か、せいぜい小学校に上がったばかりくらいの子供には、「それ」が何なのかはわからなかったが、戦争と関係があるらしいことは察しがついた。古いものだからもう要らないのだろうけど、お金のようだが、燃やしていいのだろうか、という疑問も湧いたことも、強く記憶に残っている。
「分限者」の吉太郎は、人よりたくさん国債を購入したことだろう。それによって社会的地位が上がる、より認められると思ったのかもしれない。五男で寄る辺が不確かだった吉太郎にとって、自分の地位を高める貴重な機会だったかもしれないとも思う。
〈275〉分限者については「47 分限者」で述べた。
《主な参考》
立命館大学国際平和ミュージアム>大東亜戦争割引国庫債券
※トップ写真もこちらからお借りしました。
財務省>戦前や戦中に発行された国債は払い戻してもらえますか