文字を持たなかった明治―吉太郎69 息子の復員
明治13(1880)年鹿児島の農村に生れ、6人きょうだいの五男だった吉太郎(祖父)の物語を綴っている。
昭和の初め、中年の再婚どうしで家庭を持った吉太郎。昭和3(1928)年生れの一人息子・二夫(つぎお。父)には百姓の跡継ぎとして早く仕事を覚えてほしかったのに、高等小学校から農芸学校へと進んだ。昭和19(1944)年、あと1年足らずで農芸学校を卒業するはずの二夫は、両親に黙って陸軍の少年飛行兵に志願、入隊した。跡継ぎの安否がわからないまま終戦を迎えた吉太郎夫婦は、食糧増産が叫ばれる中、日々の農作業に精を出すしかなかった。
それが昭和20年のうちのことだったのか、21年になっていたのか、吉太郎の孫娘である二三四(わたし)は、きちんと聞かされた記憶がない。覚えていないだけかもしれないが、前項でも触れたとおり、戦時中や終戦後の苦労を、大人たちはあまり語りたがらなかったのだ。
ともかく、ある日。消息が途絶えていた二夫がひょっこり帰ってきた。よれよれの軍服に汚れた背嚢を背負って。
家の敷地に入ってきた二夫を見つけたのは、妻のハル(祖母)のほうだった。最初の一言は
「んだ。わや、生ぎっちょったか」(あらまあ。あんた、生きてたのかい)
だった。これはのちに二夫から二三四が聞いたことである。
消息がわからないまま終戦を迎え、その後も何の音沙汰もない息子のことを、ハルも吉太郎も、外地かどこかで死んでしまったものと思いこんでいたのだ。いずれ二夫について書くときに述べたいが、特攻で「散華」したはずではないことも吉太郎たちは予想してはいたが、戦地で、あるいは敗戦の混乱の中、どんなことが起きてもおかしくはなかった。
ハルは家の中に駆け込み、吉太郎を呼んだ。
「二夫が戻っきたが!」(二夫が帰ってきましたよ!)
囲炉裏端でキセルを吹かしていた吉太郎は、火を消すのも忘れて立ち上がった。そして、庭に立っている二夫を見てハルと同じことを言った。
「わや、生ぎっちょったとか」
無事生還できた息子相手に、聞きようによってはずいぶん失礼な物言いではある。しかし、率直な感想であり、心底の安堵から出た一言でもあった。息子の安否にはそれほど絶望していたということでもあろう。
「ちゃん、いまやった」(父ちゃん、いま戻りました)
二夫が言うと吉太郎はぶっきらぼうに答えた。
「早よ上がれ」(早く家に入れ)
ハルは顔をくしゃくしゃにしながら「みじょ汲んでくいが」(足を洗う水を汲んでくるからね)と言い、小走りに井戸へ向かった。
吉太郎一家の戦後の生活は、こうして本格的に始まった。
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