文字を持たなかった明治―吉太郎84 生活の楽しみ(タバコ)
明治13(1880)年鹿児島の農村に生れ、6人きょうだいの五男だった吉太郎(祖父)の物語を綴っている。
昭和の初め、中年の再婚どうしで家庭を持った吉太郎。昭和3(1928)年生れの一人息子・二夫(つぎお。父)には百姓の跡継ぎとして早くいっしょに仕事をしてほしかったが、上級の農芸学校まで進んだ挙句、卒業も近い昭和19(1944)年、両親に黙って陸軍の少年飛行兵に志願、入隊。幸い二夫は復員し、戦後の食糧増産期を経て日本が経済成長に向かう中、同じ集落の娘・ミヨ子(母)を嫁に迎え、一家は四人になった。
家族が増えても吉太郎の生活に大きな変化はなかったが、モノは少しずつ増え、戦中までなかったラジオも暮らしの中に溶け込み、働くだけの生活に潤いも生まれていた。
とは言え、ラジオ聴収も相撲と(美空)ひばりくらいしか興味がない吉太郎のいちばんの楽しみは、「酒とタバコ」だった。
タバコは刻みタバコを煙管(キセル)に詰めて吸う。家でなら囲炉裏端で、囲炉裏の薪から火を移して吸い、灰は囲炉裏に落とした。田畑に出るときもタバコ入れとキセルは必ず持ち歩き、作業がひと段落したとき、昼食のあとなどに一服した。何もすることがないとき、キセルの外側は縄の切れ端で磨き、中は細い枝や麦藁などを通してきれいにした。そうすると煙の通りがよくなりタバコがより美味く感じられた。
ミヨ子を嫁に迎えた頃には、吉太郎たちが住む小さな町でも紙巻きタバコが普及してはいたが、吉太郎は相変わらず刻みタバコ派だった。タバコはもともと嗜好品、他人が紙巻きだからと自分の好みを合わせることもないのだが、吉太郎は長年の吸い方を変えたくなかったのだろう。試しに紙巻きを吸ったこともあるだろうが、吸い方から変えるのは落ち着かなかったのかもしれない。それに、紙で巻いてあるぶん割高でもあった。お金が出ていくことは、吉太郎が最も嫌うことだった。
気に入らないのは、二夫もタバコを吸うことだった。しかも紙巻きである。
20歳前に復員してきた二夫だったが、そのときにはもうタバコを吸うようになっていた。「兵隊で覚えた」と言う。「そんなに興味はなかったけど、上官や周りから言われて吸うようになった」とも語っていた。農芸学校に進学したことと言い、親に黙って航空兵に志願したことと言い、一人息子の行動は吉太郎には得心のいかないことが多かったが、ハルはいつも二夫の擁護に回る。何より大切な跡取りだから、そうそう文句も言えない。そもそも口数が少ない吉太郎は、ハルから反論されると何も言い返せなかった。
二夫から新しく出たという紙巻きタバコの「味見」を勧められることもあったが「俺(お)や こいがよか」(俺はこれがいい)と刻みタバコをふかした。
タバコ、それもいちばん安いクラスの銘柄を吸うくらいの吉太郎の「娯楽費」は、ほんとうにささやかなものだった。その吉太郎に遠慮してか、二夫も安い紙巻きタバコを選んだ。
それではもうひとつの「酒」(正確には焼酎)はどうだったかについては、次項で述べよう。