文字を持たなかった明治―吉太郎54 息子は高等小学校へ

 明治13(1880)年鹿児島の農村に生れ、6人きょうだいの五男だった吉太郎(祖父)の物語を綴っている。3週間近く、吉太郎にとっての嫁・ミヨ子(母)の近況――介護施設入所後体調を崩して入院し、退院するまで――を追うのを優先してしまい、吉太郎の物語が中断していた。そろそろこちらへ戻り、前項「53 昭和の学制」に続けよう。

 昭和の初め、中年の再婚どうしで家庭を持った吉太郎は、一人息子・二夫(つぎお。父)の成長を楽しみにして、尋常小学校を卒業したら自分といっしょに農作業をし、百姓の跡継ぎとして仕事を覚えてほしいと思っていた。しかし、学校の先生も妻のハル(祖母)も、二夫はよくできるのだから上の学校へ行かせたいと言い、ハルは「学費は自分が何とかする」とまで言う。やむなく吉太郎は折れた。

 学校と名の付くものに通ったことがない吉太郎にとって、働き手の一人でもある息子が尋常小学校を出ただけでは足りず、その上の高等小学校へ行くなどまったく賛成できなかった。しかし、二夫は楽し気に学校へ通い、かつ相変わらず成績がよかった。二夫は早晩百姓の跡取りとして農作業三昧の生活になる。「学校の勉強ができる」ことが、百姓にとってどんな意味があるのか、百姓にとって得なことはあるのか。吉太郎には図りかねた。

 成績がいいのは、吉太郎から見ても、ハルの影響が大きそうなことは明らかだった。そもそも、晩婚で生まれた一人息子の二夫を、ハルはそれはそれは大切に育てた。どこへ行くにもいっしょで、乳飲み子の頃は背負い、少し大きくなってからは作業道具や収穫物を入れた籠と、二夫を「入れた」籠とを天秤棒に架け、肩に担いで田畑へ出た。二夫が歩けるようになってからは、もちろん手を引いて。

 その道すがら、あるいは農作業の傍らで、ハルは二夫にいろんな「お話」を語って聞かせた。吉太郎はまったく通わなかった小学校で、ハルが習った国語の教科書の中の物語だったり、誰かから聞いた昔ばなしだったり、若い頃「奉公」に出ていた東京の街の様子や奉公先での体験談だったりした。そのどれもが、吉太郎には縁のない、もうひとつ言えば興味もないものだった。

 いっしょの時間を通して密接になる母と子の関係だったが、吉太郎は羨ましいとも思わなかった。それよりも、自分の土地、すなわち財産を増やすことのほうが大事だった。その財産はそっくり息子に受け継がれる。自分が息子にしてやれることはほかになく、それで十分であるとも思っていた。

 だからなおさら、二夫には少しでも早く百姓仕事を覚えてほしいのに、高等小学校は2年もあった。卒業する頃二夫は14歳になっていた。

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