文字を持たなかった明治―吉太郎104 孫娘
(「103 二人目の孫」より続く)
明治13(1880)年鹿児島の農村に、6人きょうだいの五男として生まれた吉太郎(祖父)の物語である。
昭和35(1960)年、待望の初孫しかも男の子が生まれたのに続き、昭和37年の5月には女の孫が生まれた。女の子にさして興味はない吉太郎だったが、産婆さんが抱き上げた赤ん坊をひょいと見て思わず口にした。
「百ばばが生まれた!」
「百ばば」とは、天保11(1841)年生れで昭和14(1939)年に没した吉太郎の母、スヱのことである。いまの数え方だと100歳にちょっと届かないが、戦後年齢の数え方が満年齢に統一されるまで、日本人はは「数え」で年齢を数えた。誕生と同時に1歳、正月が来れば誰もかれもひとつ年を取る。農村など地方では戦後もこの習慣が長らく続いた。
数え方の違いに加え、戦後もずいぶんたつまでは90歳を越えるようなご長寿は本当に稀だった。おそらくスヱ婆さんが90歳をいくぶんか過ぎた頃から、集落の人々は敬意と親しみを込めて「百ばば」と呼んだのだろう。
この「百ばば」似の赤ん坊が、ここnoteに昭和や明治の物語などをつらつら綴っている二三四(わたし)である。なお、「百ばば」似についてのエピソードは、嫁のミヨ子(母)の半生を綴った「文字を持たなかった昭和」の「八十六 百ばば」で詳しく述べている。長じてからの二三四が「百ばば似」と言われたと聞き困惑したことも。
さて、男の多いきょうだいの中で育ち、子供の頃から一貫して男社会でもまれてきた吉太郎は、女性への接し方には慣れていなかった。ただ女の赤ん坊は上の男の子より丈夫で、あまり病気もしなかった。吉太郎も「女の子もいいものだ」と思ったが、せいぜいそのくらいである。
そもそも吉太郎は無口なほうでもある。男の子ならちょっとした遊びを教えるとか、遊び道具――手製の凧や、竹馬とか――を作ってやるとかまだ「接点」があるが、女の赤ん坊となるとまるでお手上げだった。
もっとも、忙しい農家では、母親とて赤ん坊に四六時中くっついているわけではなかった。嫁のミヨ子(母)は上の子のときと同じように赤ん坊をおぶって田畑に出た。赤ん坊連れではどうしても具合が悪いときは、吉太郎の妻のハル(祖母)が子守りをした。
そのうち、下の子の子守りはハルが引き受けるようになっていった。勝気で記憶力がよく、家事全般も農作業もなんなくこなすハルといっしょにいる時間が長いせいか、下の子も勝気で、なんにでも興味を示すようになった。とくにハルが話して聞かせる昔ばなしは気に入っているようだった。それには、ハルが通った明治時代の小学校の国語の教科書に載っていた神話や、奉公先だった東京の上流家庭の奥様から教えてもらった話が含まれた。
いずれにしても、吉太郎自身が孫たちの世話をするとか、短時間でも遊び相手になるというようなことは皆無だった。ただ家族が増えるということはいずれ働き手が増えるということでもある。まだ小さい孫たちが、将来の「わが家」の安泰を保証してくれるような気もしていた。(「祖父と孫①」へ続く)