文字を持たなかった明治―吉太郎71 復学せず

 明治13(1880)年鹿児島の農村に生れ、6人きょうだいの五男だった吉太郎(祖父)の物語を綴っている。

  昭和の初め、中年の再婚どうしで家庭を持った吉太郎。昭和3(1928)年生れの一人息子・二夫(つぎお。父)には百姓の跡継ぎとして早くいっしょに仕事してほしかったのに、高等小学校から農芸学校へと進んだ。昭和19(1944)年、卒業も近かった二夫は、両親に黙って陸軍の少年飛行兵に志願、入隊。跡継ぎの安否がわからないまま日本は終戦を迎え食糧増産が叫ばれる中、吉太郎夫婦が日々の農作業に精を出していた頃、二夫はひょっこり復員し、吉太郎一家はもとの親子三人の暮らしに戻った。

 この時点で、二夫が農芸学校に復学するという考え方もあった。その方途もちゃんと探ればあったことだろう。

 しかし二夫が復学することはなかった。

 ひとつは戦後の混乱期、学制なども大きく変更される時期、入隊する前の科やクラスにそのまま戻れるか、すぐにはわからなかったこともある。「67 空襲そして敗戦」で触れたとおり、終戦間際空襲で学校本館等が破壊された影響は残り学校も混乱していただろうし、「高等農林(と、地元では呼ばれていた)はまだ当分は授業もできないだろう」と地域の人々は思っていた。そもそも戦後も農芸学校として存続するのかさえわからなかった。

 それに、吉太郎はもう二夫を学校に行かせる気はなかった。学業の途中で兵隊に志願するというとんでもない発想をしたのは、人より余分に勉強なんかしたからだ、という気持ちが消えなかった。
 
 二夫は二夫で、少年らしい理想に燃えて、と言えば聞こえがいいが、つまりはわがままから入隊し、両親には農作業の負担を負わせてしまったこと、何より心配させてしまったことを申し訳なく思っていた。幸い復員できたいま、学業に未練がなかったわけではないが、この混乱期に学校に戻りたいとも言い出せなかった。

 何より、世の中は食糧増産第一だった。戦争で荒廃した国土を復興し、人心を安んじるには、人々の胃袋を支え、次は人口を増やしていくしかない。そのためにも食糧の増産は最優先課題だったのだ。

 農家は農家で、主要な働き手である若い男手をあらかた兵隊に取られたあとだから、労働力の確保には難儀していた。出征していた息子や大きい孫などが復員できた家はましなほうだった。

 もっとも男手の不足はどの産業にも共通していて、どこでも若い男手は不足していたから、「誰それの家の息子は復員した」と聞けば、いろいろなところから「ぜひうちに」と声がかかった。復員時点でまだ二十歳前だった二夫のところにも、じつはいまでいうヘッドハンティングのような誘いもあった(このことは二夫について書くときに詳しく述べる)。

 しかし、吉太郎も二夫も、今度こそ家族総出で農業に取り組む道を選んだ。とにもかくにも、あるだけの田畑に、植えられるだけ作物を植え、収穫すること。それが吉太郎たちの戦後の本当の始まりでもあった。

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