文字を持たなかった明治―吉太郎32 最初の子・ハツエ②
明治13(1880)年生れの吉太郎(祖父)の物語を進めている。
吉太郎の前妻・セキはお産で亡くなった。産まれた女の子・ハツエもすぐに死んでしまったことは、前項で述べたとおりだ。
乳をやる母親が亡くなり、当時なら老年に差し掛かるぐらいの年齢で男鰥夫(やもめ)となった吉太郎が、生まれたての赤ん坊の世話を十分にできなかったことは想像に難くないし、誰にも責められない。
二三四(わたし)も、セキと赤ん坊が死んでしまった話を聞かされるたびに「しかたがなかったんだろう」と思ったし、その気持ちは大人になってからもあまり変わらなかった。
しかし、生まれたばかりのハツエの面倒を見られなかったことに前項で触れたとき、ちょっとした疑問が湧いてきた。
吉太郎はセキを娶る前に、のちに二三四の実家ともなる大きな家屋敷を手に入れていたはずであり、言わば独立していたと言ってもいい。一方戸籍上は、兄・庄太郎が戸主を務める一家の一員に過ぎず、セキの後妻となるハル(祖母)と正式に「婚姻」したとき、ハルはその戸籍に「弟嫁」という続柄で構成員に加わった。つまり、吉太郎夫婦と子供は、兄を戸主とする大きなファミリーの一部だったと言っていい。
さらに、吉太郎の屋敷はもとの家のすぐ近くにあった。1本の坂の中ほどとその上いう位置関係で、歩いて〇分というより、上の家から木戸口を出て首を伸ばせば吉太郎の家の庭が見えた。
形式的にも物理的にもそれほど近い関係にありながら、生まれたばかりの赤ん坊を、一族の誰も世話しなかったのだろうか?
なるほど、晩婚の吉太郎は赤ん坊や子供の世話は経験がなかっただろう。そもそも男親が子供の世話を焼く時代でもなかった。吉太郎自身、奥さんに急逝されて気落ちしてもいただろう。
しかし、本家(と便宜上言うとして)には女手はいく人かはあっただろう。ハツエに乳を分けてやれるような女性が家族にはいなかったとしても、どこかからもらい乳してくる、あるいはその手助けをするぐらいのことを、誰もしてやれなかったのだろうか。どうしても乳がなくても、ご飯を炊くついでに重湯をこしらえて飲ませるくらいのことはできたのではないか。
――等々、考え始めればきりがない。
逆に、当時は一族の暮らしが厳しかったのかもしれないし、もしかすると吉太郎は「鼻つまみ者」で、ほかの家族が世話を焼きたいと思うような対象ではなかったのかもしれない。あるいは――セキの話に戻ると――嫁として大事にしたいと思われないような、なんらかの理由、背景があったのかもしれない。
もちろんこれらは推測とも言えない、妄想に近い想像に過ぎない。
いずれにしても、前妻のセキとその子供のハツエが亡くなったから、吉太郎は後妻をもらい、子供が生まれ、その下の代、つまり二三四たち孫につながっていく。人の巡り合わせはつくづく不思議なものである。