文字を持たなかった明治―吉太郎94 初孫②

より続く)
 昭和30(1955)年頃。明治生まれの吉太郎(祖父)一家は新たにミカン栽培を始めるため、果樹を植える畑の整地から着手した。

 はじめは山林の開墾からだ。老齢に入った吉太郎には堪える作業だったが、毎日のように山に足を運んだ。9歳下の妻のハル(祖母)はもとより勝気で体も丈夫だったから吉太郎と同じくらい働いたが、ハルも60歳半ばになっており、一家にとっての負担はけして軽くなかった。

 幸いというか、一人息子の二夫(つぎお。父)は吉太郎夫婦がもともと晩婚で遅く生まれた子供だったから、まだ30歳手前、働き盛りにもなっていない青年と言ってもいい年だったから、両親の分までというほどの働きぶりだった。

 本来なら嫁のミヨ子(母)にも、ハル以上くらいには働いてほしいところだったが、前項で述べたとおり昭和32(1957)年に初めての子供を身ごもっており、身重のミヨ子には軽作業を任せるしかなかった。

 それぞれができる範囲で、というよりは年齢的・身体的なことも考えれば、能力以上のことまで取り組んでいた時期。ミヨ子のお腹はいよいよ大きくなり、生まれてくるのは男の子か、女の子か、男なら跡継ぎだがと、家の中での会話もはずむことが増え、本来無口で不愛想な吉太郎もそこはかとない笑顔を見せることが増えていった。

 集落や、同じ山に開墾に来る地域の女性たちは、ミヨ子のお腹を見て
「腹が尖っちょっで男ん子じゃが」(お腹が尖っているから、男の子だろうね)
と言う人が多かった。なんでも、お腹が前に突き出た形に膨らんでいる場合男の子、全体に丸くふっくらしている場合は女の子が産まれるらしい。

 生活の知恵を大事にするハルは、もうすっかり男の子が産まれるつもりでおり、ことあるごとに
「じょっか男ん子を産まんなね」(丈夫な男の子を産まないとね)
とミヨ子に声をかけた。だからと言って、家事を手伝ったりはしない。
「おや、お産の朝ずい畑ぃ行ったもんじゃった。おなごは誰(だい)でん そげんして子を産んもんじゃ」(おれは、お産の朝まで畑へ行ったものだった。女は誰でも、そうやって子を産むものだ)
がハルの口癖でもあった。

 ミヨ子は黙ってふだんどおりの家事をし、相変わらず家族の弁当を下げて歩いて山に入った。

 そんな家族の様子を見ながら、吉太郎は「これでこの先も安泰だ」と内心うれしく思うのだった。(へ続く)


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