文字を持たなかった明治―吉太郎91 ミカンへ

 明治13(1880)年鹿児島の農村に生れ、6人きょうだいの五男だった吉太郎(祖父)の物語を綴っている。

  昭和の初め、中年の再婚どうしで家庭を持った吉太郎。昭和3(1928)年生れの一人息子・二夫(つぎお。父)には百姓の跡継ぎとして早くいっしょに仕事をしてほしかったが、上級の農芸学校まで進んだ挙句、卒業も近い昭和19(1944)年、両親に黙って陸軍の少年飛行兵に志願、入隊。幸い復員でき、昭和29(1954)年に同じ集落の娘・ミヨ子(母)を嫁に迎え、一家は四人になった。

 昭和30年代に入り日本が高度経済成長を続ける中、消費者の嗜好は多様化し、農家のやり方も変革を求められつつあったことを前項で述べた。吉太郎たち前の世代が新しい波に乗りきれない様子も。そもそも明治前半から中期生まれで、かつ晩婚の吉太郎とハル(祖母)は、言ってみればふた世代前の感覚であるとも言えた。

 一方息子の二夫は新しい農業の経営方法に関心を持っていた。指導する側からすれば、地域の若手リーダーの一人として、新しい農業政策と営農方針を伝授しておきたい対象になっていた、という側面もあるだろう。

 新たな営農方針とは、果物生産への転換、または経営範囲の拡大だ。戦後の混乱が収まり、経済が右肩上がりで成長する中、人びとの消費欲は食べるものにも向いていった。とは言え人ひとりが食べられる量には限りがある。当然、よりおいしいもの、より珍しいもの、多様なものが求められた。

 食事はお腹いっぱい食べられるようになった。おかずも増えた。そこでデザート、つまり果物である。具体的には、吉太郎たちの地域では――おそらく鹿児島県内の多くの地域でも――温州ミカンの生産が奨励された。気候が温暖で、大量に生産できることから選ばれたのだろうか。ともかく、農協の「営農指導」はミカン最優先だった。

 しかし、当然ながら果樹は野菜と違う。多くの野菜は畑に種を播けば数カ月で収穫できる。しかし樹に成る果物は、樹を植え育てるところから始めなければならない。それぞれの果樹に適した環境も違う。

 吉太郎は田んぼ以外に畑も持っていたが、果樹を植えてしまうと野菜を植えるには狭くなる。何か所かある畑が、果樹栽培に適した土壌や環境だとも限らない。

 その頃、同じ営農指導を受けた地域の複数の農家の間で、山林を開墾してミカン山にしようという話が持ち上がった(あるいは、農協から指導が先だったのかもしれない)。すでに70の齢を越えた吉太郎は、自分たちはどこまでやれるだろうか、と思ったが、二夫は乗り気だった。むしろ、地域の主要な若手として、その話し合いの中心にいたかもしれない。

 そして、吉太郎の所有地を含む山林の一帯をミカン山とすべく、開墾していくことが決まったのだった。

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