文字を持たなかった明治―吉太郎109 大往生
(「昭和45年」より続く)
明治13(1880)年鹿児島の農村に、6人きょうだいの五男として生まれた吉太郎(祖父)の物語である。
初孫の男児にふたつ下の孫娘と孫にも恵まれた。高度経済成長期の最中、世の中はどんどん変わり暮らしも便利になった。昭和38(1963)年の東京オリンピックに続き、昭和45(1970)年には大阪で万国博覧会が催された。吉太郎は90歳になり、敬老の日には県知事からお祝いとして電気毛布を贈られた。
秋。稲の取り入れも終わり、跡取り息子の二夫(つぎお。父)夫婦が晩秋から冬の野菜の収穫などにいそしんでいた頃頃。
行動範囲といえば家の周囲と、せいぜい近場の田畑へ行くぐらいになっていた吉太郎は、寝込むようになった。長年の農作業をほぼ肉体労働のみで乗り切ってきた体は、限界に近づいていたのだ。
「最近まで畑にも行っていたのに」と嫁のミヨ子(母)は呟いたが、腰は何年も前から「く」の字に曲がっていたし、膝もまっすぐには伸びなくなっていた。脚の肉もめっきり薄くなった。
寝込んだきりの吉太郎の世話は80歳を過ぎたがまだまだ元気な妻のハル(祖母)が見ていて、ときどきミヨ子が手伝った。「介護」という概念すらなく、便利な介護用品はおろか大人用の紙おむつもなかった頃、寝たきりの老人の世話はある意味とてもシンプルだった。
つまり、三食を食べさせ、下(しも)の世話をし、体を拭いてやる、というもの。
食事はみんなが食べるものを少し食べやすくして口に運んだが、それがおかゆになり、重湯になり、やがて水分しか受け付けなくなっていく。水分は、ガラスの吸い飲みから飲ませた。
下の世話は、タイミングをみて尿瓶(しびん)をあてがっていたものが、着物をほどいた手作りの布のおむつを当てたきりになった。大用でおむつを汚さないようちり紙を敷いたりもしたが、おむつ洗いはミヨ子にとって毎日の仕事になった。
体の清潔は、お湯で絞ったタオルで拭いて保った。体を拭くのは、血行を促すと同時に、体の向きを変えてやることにもつながり、床ずれ予防にもなった。もともと小柄な吉太郎は、体を拭くのもそれほど難儀でないのは助かった。
そんな日々が半月ほども続き、吉太郎は眠ったきりの時間が長くなっていた。たまに目覚めても水分を少しとるくらいでまた眠ってしまう。
11月18日の夜、吉太郎の息遣いがふだんと違ってきた。家族が布団の周りを囲む。吉太郎の呼吸の間隔はだんだん長くなり、やがて静かになった。
「じさんが け死んみゃった」*(おじいさんが亡くなってしまった)
誰ともなくそう言い、誰もがその言葉と目の前の光景を重く受け止めた。
かかりつけの医者が呼ばれ――まだ電話が引かれてなかったから、二夫がオートバイで呼びに行ったのだろう――、吉太郎の瞳孔に小さなライトを当て、脈や心臓を確認して言った。
「ご臨終です。老衰ですね。大往生でしょう」
その言葉どおり、吉太郎は長かった働きづめの一生を、静かに閉じた。少しも苦しそうではなく、まさに眠るように旅立った。〈308〉(「葬儀」①へ続く)
〈307〉吉太郎のお世話については、ミヨ子の半生を綴った「文字を持たなかった昭和」の「384 介護(3)舅①」でも述べている。
*鹿児島弁。「死んだ」は「け死んだ」で、「け」は強調。
後半の「~やった」は敬語。例:した+やった=しやった(なさった)。「け死んみゃった」の場合、直前の「しん」の「ん」をm音と捉え「みゃった」と変化すると思われる。
〈308〉臨終のもようは、同上「二百十六 吉太郎の命日」でも述べた。なお該項で吉太郎の没年を91歳(享年92)としているのは二三四(わたし)の記憶違いで、没年は90歳(同91)である。