文字を持たなかった明治―吉太郎85 生活の楽しみ「だれやめ」(晩酌)
明治13(1880)年鹿児島の農村に生れ、6人きょうだいの五男だった吉太郎(祖父)の物語を綴っている。
昭和の初め、中年の再婚どうしで家庭を持った吉太郎。昭和3(1928)年生れの一人息子・二夫(つぎお。父)には百姓の跡継ぎとして早くいっしょに仕事をしてほしかったが、上級の農芸学校まで進んだ挙句、卒業も近い昭和19(1944)年、両親に黙って陸軍の少年飛行兵に志願、入隊。幸い二夫は復員し、戦後の食糧増産期を経て日本が経済成長に向かう中、同じ集落の娘・ミヨ子(母)を嫁に迎えた。家族が増えても吉太郎の生活に大きな変化はなかったが、働くだけだった生活に小さな楽しみも生まれていた。
吉太郎の「一服」は煙管(キセル)での喫煙だったことは前項で述べた。もうひとつの毎日の楽しみは晩酌、鹿児島でいうところの「だれやめ」である。
「だれ」とは「疲れ」、それを「やめる(止める)」ので「だれやめ」だ。noteでたびたび指摘したとおり鹿児島弁は言葉を短縮したがるのだが、この「だれやめ」も吉太郎たちの地域では「だいやめ」と言っていた。
鹿児島で酒と言えばほぼ焼酎である。いまでこそ様々な種類の酒を飲むようになったが、吉太郎一家に嫁が来た頃の昭和30年前後、庶民の家にある酒は100%焼酎だっただろう。
吉太郎たちが住む、人口1万人にも満たない小さな町(自治体)には、小ぶりながら焼酎の蔵元が6軒もあった〈282〉。そして、焼酎を飲めるようになった男たちは、それぞれ自分の好みの蔵元の焼酎を飲んだ。もともと自宅から近い蔵元の焼酎を飲んでいたのが、交通手段の発達に連れて、少し離れた地域の銘柄の焼酎も飲むようになった、ということなのだろう。
吉太郎の家から比較的近い蔵元は二つあったが、いずれも徒歩では少し時間がかかる距離である。吉太郎がそのどちらを好んだかは、残念ながら孫娘の二三四(わたし)には伝わっていない。締まり屋の吉太郎のことだから、より安い銘柄の焼酎を買うように、妻のハル(祖母)に命じたかもしれない。
「だれやめ」は夕食時である。このとき家長のお膳には「しょちゅん しおけ(焼酎ん塩気)」、つまり酒の肴が供される。よく「昭和の食卓では、お父さんのおかずは晩酌の肴の分だけ一品多かった」と言われるあれだ。もっとも吉太郎の分は「酒の肴」などという気取ったものではなく、作り置きのおかずがちょっとつくか、皆と同じおかずが少し多めによそってあるぐらいのものだった。
焼酎は、ハルが湯飲みにお湯割りにして出してくれる。ハルの時間や気分に余裕があるときは、「黒ぢょか」と呼ぶ陶製の急須に焼酎と水を入れ、囲炉裏の火の脇で温めて燗をつけてくれることもあった。「黒ぢょか」は小さいので囲炉裏の直火に架けられない。囲炉裏の灰の上に五徳を置き、灰の熱と遠火で温めるから時間がかかった。湯飲みの焼酎にお湯を入れて割るより、はるかおいしく感じられたが、毎日ありつけるわけではない。そもそも吉太郎は、口に入れる物に「こまごっ」(細かい事、つまり文句や不平)を言ったことはなかった。それは息子の二夫にも受け継がれていく。
晩酌はその湯飲み一杯で終わりだ。あくまで「だれやめ」なので、少し酔いが回ってリラックスできれば十分だった。晩酌がてらの食事が終わったら、口をゆすいで寝る。
それが吉太郎の「ルーティン」である。外はもう暗いし、家の中の電灯は明るくない。食後に何かする精神的余裕はもちろん、体力的余裕もなかった。なにぶん吉太郎はもう70代半ばに差し掛かっていた。
〈282〉二三四の郷里の焼酎蔵の多さについては項を改めて述べたいと思う。また、二夫の好みの銘柄については、二夫自身について述べるときに触れることになるだろう。