文字を持たなかった明治―吉太郎50 息子の成長
明治13(1880)年鹿児島の農村に生れ、6人きょうだいの五男だった吉太郎(祖父)の物語を綴っている。
昭和の初め、中年の再婚どうしで家庭を持ち、妻ハル(祖母)、ひと粒種の男児・二夫(つぎお。父)と三人暮らしの吉太郎は、働き者であると同時に相当な倹約家だった。ぜいたくとは無縁、楽しみと言えば煙管(キセル)で一服するくらいの吉太郎だったが、息子の成長は心から楽しみにしていた。
一人息子の二夫がいずれすべての土地や家屋敷を継ぐことは、誰の目から見ても「既定路線」である。だからと言って吉太郎が二夫を溺愛していたわけではないことは、前項で述べた。むしろ、いずれ家を継がせるからこそ、家業である農業に関することは少しでも多く身に着けさせなければ、と吉太郎が考えていたことは想像に難くない。
二夫を含む当時の、とくに地方の農山村、漁村の子供たちにとって、家(親)の手伝いは当たり前すぎるほど当たり前のことだった。商売をしている家もそれを手伝ったし、女の子は家業の手伝いのほかに、家事や子守をするのが当たり前だった。学校に行く以外は自分の好きなことをしていていい子供は、ほぼ皆無だっただろう。そしてどれも、大人がすることを身近で見て覚えた。いまで言うOJT(On the Job Training)だ。
吉太郎は話し好きではなく、どちらかと言うとむっつりしていることが多かった。二夫に教えたい日々の農作業も口で説明するのではなく、やって見せることで覚えさせた。農民には、日々、そして一年四季やるべきことが山ほどあり、途切れることはなかった。吉太郎は早朝から日が暮れるまでそれをこなしていく。二夫にはその姿を見せて覚えさせるのだ。
だから、二夫が学校に行っている昼間の時間は、吉太郎にとっては無駄なような気がした。農業は――とくに当時は――明るい時間しか働けない。それなのに、その多くの時間に二夫はいない。学校へ行く前、帰ってからでもできることはあるが、それは一部に過ぎない。学校なんか辞めさせたいが、義務教育制度はすでに定着していた。
吉太郎から見てあまりできのよくなさそうな集落の子供でも、毎日学校へ行っている。まして、二夫は「よくできる」らしい。妻のハルが言う分には親の欲目もあろうが、集落や地域の知り合いが「お宅の息子さんは、学校でもよくできるようですね」と言えば、それがお世辞半分の挨拶であったとしても、悪い気はしなかった。
ときは昭和10年代、 昭和の不況を経て、支那事変から日中戦争へと進む頃。晩婚の吉太郎は50代の半ばに差し掛かっていた。