文字を持たなかった明治―吉太郎44 自給自足
明治13(1880)年鹿児島の農村に生れ、6人きょうだいの五男だった吉太郎(祖父)の物語を綴っている。昭和の初め、中年の再婚どうしで家庭を持ち、妻ハル(祖母)とひと粒種の男児・二夫(つぎお。父)と三人暮らしの吉太郎は、働き者であると同時にかなりの倹約家だった。
収入のほとんどは自分で管理し、日常の出費は妻のハル(祖母)任せ、というよりほとんどお金を渡さなかったので、ハルは野菜を売るなど自分でやりくりするしかなかった。
当時の農家はほとんどのものを自給自足でまかなっていた。それは明治に変わる前まで延々と続いてきたのだし、明治になってからも生活自体はそれほど大きく変わったわけではなかった。明治の農村で生まれた吉太郎もハルも、なんであれ自分の手で作ることを基本に生きていた。
米や麦、イモなどは当然ながら――もっとも米はお金に換えるもので、主食は専ら麦やイモだった――、大豆や小豆などの豆類、季節の野菜も順繰りに植えて育てた。そしてそれらを加工した漬物や梅干し、味噌、醤油といった保存食や調味料も、もちろん自家製だった。〈263〉
どの農家も――出来の良しあしはあっただろうが――、一家が食べる分は自前でまかなうのが当たり前で、百姓は苦労がどんなに多くても最終的には「食いっぱぐれがない」という点が、生きるうえでの拠り所であり、誇りでもあった。
ハルは季節の野菜のこまめな管理や、保存食・調味料作りに長けていた。衣類や布団の長持ちにつながる繕い物などの家事もまめにこなした〈264〉。吉太郎が「生活費」をくれないのなら自分でなんとかやりくりするという方向に進めたのも、それを支える能力があったからだ。ついでに言えば「そっちがその気なら、わたしはわたしでやって見せる」という向こうっ気の強さを持ち合わせてもいた。
吉太郎は吉太郎で、農業につながるものは自分で作った。鍬や鎌などの農作業用の道具はさすがに買うしかなかったが、柄の部分が折れたり抜けたりしたら、代用として手近な木の枝などを削って調整するのも吉太郎の仕事だった。
木の細い幹や枝、竹など自前の山や裏庭から採ってきて作れるものは、ほかにもたくさんあった。稲を干すときの稲架(はざ)を組むのに使う支柱は、山の細い木を切って枝を落としたものだったし、稲を架ける竹竿は、裏庭に生える竹を適当な長さに切って使った(適当と言っても5~6メートルの長さはある)。農業資材は買うものではなく、すべからく自分で工夫して用意するものだったのだ。
農作業には収穫物や道具を束ねる、まとめるといった作業が多いが、そのためには長い縄が必要だった。前年の稲作で残った藁を少しずつ手に取って縄を綯(な)うのは、吉太郎の仕事だ。藁草履も編んだがこれは作業用というより、少し改まった用事のときに履く「お出かけ」用だった。
そして、これらの家の中でできる作業は、大雨などで外の仕事ができないときにやるものだった。ただし夜はやらない。電球をつけるのがもったいなかったからである。吉太郎の倹約にかける、そのあたりの徹底ぶりは「明治の(?)習慣 電気をつけない」で触れている。
〈263〉のちに嫁入りしたミヨ子(母)がハルから引き継いだ保存食作りについては、「文字を持たなかった昭和」中、「二百六十七(手前味噌、余話)」、「二百七十四(手作りの乾物―干しキクラゲ)」、「338 梅干し(10)保存」などで多々述べてきた。
〈264〉ハルの能力の高さについては、いずれハル自身について書く際に改めて詳述したい。