番外 長野立てこもり事件雑感
日記代わりのメモとして。
2023年5月25日午後、長野県中野市で女性が男にナイフで襲われ、通報を受けてパトカーで駆け付けた警察官2名が、同じ男にパトカーの窓ごしに猟銃(のようなもの)で発砲を受けた。現場付近には近隣の女性も同じ男に襲われて倒れていた。これらの方々(4名)はすべて死亡が確認されている。痛ましい、そして凄惨な事件だ。
まず、亡くなられた方々に哀悼の意を、ご遺族やご関係者にお悔やみの気持ちを表します。(この手の事件のとき、わたしは無意識に手を合わせてしまう。もちろん今回も)
ことに殉職された警察官については胸が痛む。急報を受けて駆け付けた現場で、銃口を至近距離から向けられた恐怖はいかばかりだったろう。発砲後の瞬間は痛みを感じる間もなかったかもしれない。うち一人の巡査部長は61歳とのことだが(もう一人は46歳で警部補)、定年後の雇用延長で職位(や給与)が下がっても、現場で警察官を続けたい、という人だったのではないだろうか。
ナイフによる犯行という通報だったため防弾チョッキを着用していなかったという報道があり、警察の対応は十分だったかという議論も起きるかもしれないが、ひらたく言えば想定外だったということだろう。近隣の住民の皆さんも「これまで刃物や銃器を使った事件なんて起きたことがない」「こんな田舎で」といったことを口々に述べている。
もちろんいちばん重要なのは犯行の動機であり、容疑者が置かれていた環境(精神的なものを含む)、あるいは銃器の取扱いなども問題になるだろう。全てはこれからなのだが。
それにしても、想定外の事件が多すぎる。続きすぎる。もはやこれが日本の常態ではないのか。
とわたしは漠然と、だがかなり前から感じている。
もうひとつ言えば、自殺、それも子供の自殺が増え続けている。これは何を表すのか。
生きづらさ、貧困、格差、いじめ、………。事件が起きる度に、背景にある社会的課題が原因として取りざたされ、関係する行政機関が再発防止や被害者のケアに取り組む、ということが繰り返されてきた。今回も同じような流れになるかもしれない。
それぞれの関係者は相当以上に尽力されているのだろうと思うが、それで社会はよくなってきたのかなぁ、と素朴に思う。むしろ、よくない方向に地滑りを続けている気がする。
わたし自身はそう長生きしたいとも思っていないが、ご先祖から命をつないでもらったことには感謝しているし、他者の命も尊重している。ここまで命がつながっていること――自分であれ、他者であれ――の奇跡に思いが至れば、それをないがしろにはできないはずだと思う。
命を粗末にするのは、極論すれば命は自分(個人)のものだと思っているからだ。その背景には、なににおいても自分のやりたいこと、自分の欲求が常に中心にあり、その追求は善だという考え方があると、わたしは思っている。
日本は敗戦後、そんな生き方を許容し、追及してきた、もちろん戦前から戦中の全体主義への反動、否定として。共同体のルールや秩序が優先される制度も、年長者を敬う精神も、親や祖先に感謝するしつけも、遠ざけてきた。その帰結が今の日本ではないのか。
高度経済成長期の恩恵を受けて成長し、社会人になってからはバブル期も経験した一方で、政治や社会問題にさほど関心を持ってこなかったわたしが偉そうなことを言える義理ではないが、個人がすべてに優先するようないまの社会のありかたには、けっこう嫌気が差している。
いずれ日本は、日本語という共通言語が存在するだけの、精神的実体が何もない国になるだろう、とも思う。それが極端な悲観論で終わることを祈る。
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