文字を持たなかった昭和 二十一(夢半ば)
戦後の復興期を迎え、幼なじみとともに佐賀の紡績工場で働くことになった母ミヨ子は、工場での仕事に勤しみつつ、郷里では想像もできなかったいろいろな経験を楽しんでもいた。
当時について詳しく聞く機会を作らなかったわたしだが、父が先に亡くなり一人暮らしになったミヨ子のもとへ帰省した折り、たまたまわたしを訪ねてきた友人が、ミヨ子の「青春時代」に話題を振ったことがある。そんな話題を母親が好むなどとはずっと考えてこなかったわたしの予想を裏切り、ミヨ子は当時を懐かしんで「楽しかった」と答えた。ただ、具体的に何が楽しかったかについてはほとんど語らなかったし、相手や周囲の反応を観察して自分をコントロールするタイプのミヨ子が、友人の「若い頃は楽しいこともあったでしょう」という問いかけに呼応して、相手が期待しているでろう反応をして見せた一面もあったはずだ、とは思っている。
ミヨ子のそんな「青春時代」は、しかし長くは続かなかった。結核に罹ったのだ。
紡績の仕事、とくに女工が担う作業と結核の関係というと、明治の殖産興業期、貧しい農村から働きに出た若い娘たちが、長時間労働と衛生的でない環境、不十分な福利のもとで結核に罹ってしまい、衰弱して郷里へ戻される――というストーリーが浮かぶ。わたしも「結核で」と聞いたとき、たぶん小学生だったと思うが、「戦後に結核?」と驚いた記憶がある。ただ、結核という言葉の重みから、詳しい状況を尋ねてはいけない気分になったことを覚えている。
後年何かの機会に紡績工場の話題が出た折り、結核の原因をそれとなく訊いたところ「繊維くずが四六時中舞っている工場の中にずっといたからねぇ」と答えてくれた。終戦から数年を経たくらいの時期のこととて、作業中マスクなどの着用もなかったのかもしれない。
当時の九州では工業都市として発展していた大きな町の、郷里とはまったく違う環境だが幼なじみもいっしょに働いている職場で、これまで手にしたことのない、それも毎月固定して支給される収入を得て、一定の福利も与えられた生活――。長く働きたいと願っていただろうに。
夢、というほどのものだったかはわからないが、期待は半ばで諦めざるを得ず、残念な気持ちを抱え、ミヨ子はひとり鹿児島本線を下る列車に乗ったのだった。