文字を持たなかった明治―吉太郎58 昭和17年という年
明治13(1880)年鹿児島の農村に生れ、6人きょうだいの五男だった吉太郎(祖父)の物語を綴っている。
昭和の初め、中年の再婚どうしで家庭を持った吉太郎。昭和3(1928)年生れの一人息子・二夫(つぎお。父)には、尋常小学校を卒業したら百姓の跡継ぎとして仕事を覚えてほしいと思っていたが、二夫は高等小学校へ、さらには地域で「高等農林」と呼ばれる農芸学校へ進むことになった。無学で自前の土地を広げることにしか興味がない吉太郎にとっては意に沿わないことだったが、二夫が農芸学校で新しい技術を学んで来ることは頼もしくもあった。
二夫が農芸学校へ進学したのは昭和17(1942)年の春。
吉太郎たちが暮らしていたのは、農漁業、林業以外には焼酎や瓦などの小規模の工場があるくらいの小さな町である。しかし、5年前から続く中国との戦争に加え、前年に始まった対米英の戦争は、日本の隅々に影響を及ぼしていた。
では、昭和17年はどんな年だったのか。歴史に詳しいわけではないので、インターネットの記事などを参考にしつつ、振り返ってみよう。
対米英戦の戦局的には、真珠湾攻撃での成功など前年の勢いが残るのは前半くらいまでで、ミッドウェー海戦での敗北やガダルカナル島からの撤退決定(12月31日)など、日本にとっての雲行きは怪しくなっていく。
もちろん一般国民に戦局の詳細は知らされないまま、国民の戦意や士気を高めるための方針、国民に協力や忍耐を求める政策などが強められる。食塩配給制、ガス使用量割当制、味噌・醤油の切符配給制、衣料の点数切符制が始まり、一般国民の生活への統制が強められていく。「金属回収令」により梵鐘等の強制供出が始まり、アルマイト製のおもちゃは製造販売できなくなる。「欲しがりません勝つまでは」の標語が流行したのもこの年だ。
言論や表現で言えば、日本出版文化協会が全出版物の発行承認制実施を決定。新聞統制により大小の新聞社が合併していく。レコード会社は、カタカナの社名を次々に日本風の社名に改称する。もっとも、レコードは当時有力なメディアでもあり、レコード、すなわちコンテンツの製造・販売で当局に「協力」することは、レコード会社の経営にとって悪い話ではなく、時局を経営の味方につけたという側面もある。
大きいところでは、「企業整備令」が公布され軍需用品増産のために中小企業への法的規制力に根拠ができた。翼賛政治会も成立した。
そして9月には陸軍防衛召集規則が公布公布され、「国民皆兵」の原則が実現、総力戦体制の実感を国民に与えるようになる。もっとも当初は1年程度の待命期間が想定されており、待命者には水色の令状が公布された。のちに「赤紙」と呼ばれるようになるピンク色の召集令状は、あくまで非常召集用だったようだ。
つまり、戦争継続にさまざまな資源を優先させるための統制が日々の生活に目に見えてくるようになり、一般国民が「戦時下」を徐々に実感し始めた時期と言えるだろう。
そして吉太郎自身はとうに還暦を超え、2月には満で62歳になっていた。
《主な参考》
防衛召集問答 陸軍防衛召集規則の解説 - 日本近現代史と戦争を研究する