文字を持たなかった明治―吉太郎30 前妻セキさん②
明治13(1880)年生れの吉太郎(祖父)の物語を進めているが、前項を受けて、お産で亡くなったという前妻のセキについて続ける。
セキが亡くなった日は、お寺にもお墓(その後納骨堂に移転)にも記されており、吉太郎たちは明らかに結婚生活を送っていたと窺えるにも関わらず、セキ自身についてはそれ以上の手がかりがない。戸籍に名前がないからだ。
吉太郎について述べるために古い除籍謄本をひも解く中で、明治になって急ごしらえ的に整備された戸籍制度とそこに記された内容は、人々の実生活と必ずしも一致していなかった――むしろ往々にして乖離があった――らしく、それを裏付けるようないくつもの事例が散見された。
だから、吉太郎とセキとの関係が「婚姻、入籍」という形で戸籍に記載されないまま、夫婦としての生活は普通に営まれていたと考えることは難しくない。吉太郎の長男・二夫(つぎお。父)も、二夫がのちに妻として迎えるミヨ子(母)も、それぞれの母親とともに「入籍」したのは生後1年ほども経ってからだ〈249〉。子供たちがもっと大きくなってから、妻とともにまとめて「入籍」するケースも見た〈250〉。
セキに関しても、吉太郎を含む一家の人々は、「そのうち子供が生まれてからまとめて戸籍に入れればいい」くらいの気持ちでいた可能性がある。
ただ、孫娘の二三四(わたし)が古い除籍謄本を見比べていて気になったのは、吉太郎きょうだいの長男で、明治に入って作られた一家の戸籍では戸主であった仲太郎の死である。「吉太郎22 大家族⑧戸主の死」で述べたように、仲太郎は大正14(1925)年3月、満で64歳という年齢ながら独身のまま、故郷から遠く離れた大隅半島の内之浦村(現肝付町)で亡くなった。
そしてセキは、同じ年の7月に亡くなっている。
二人の間に何か関係があったというより、吉太郎は仲太郎とともに内之浦村へ一種の「出稼ぎ」に行っていたのではないか。そこで吉太郎とセキは知り合い、子供を作るような仲になった、しかしいっしょに行った長兄が亡くなってしまったため吉太郎は帰郷せざるを得ず、セキを連れて帰ってきたのではないか。
――と、これは二三四のまったくの「妄想」ではある。
ただ万一そうだとしたら、あるいはそうでなくても、セキがどこの生れでどんな育ちで、どんな縁で吉太郎の妻となり、お墓にもお寺にもちゃんと同じ苗字で埋葬され記録されるほど家族としてきちんと遇されていたのか。
自分の祖父となる男に一人目の妻として迎えられ、一家の一員として暮らし子供も産み、40歳手前まで生きた一人の女性について、何も手掛かりがないのが二三四にはもどかしくてしかたがない。
そんな女性がいたことだけでも残しておきたくて、戸籍にはいないセキさんについて書いてみた。
〈249〉これについては何回も触れており、「ひと休み(戦前の出生届)」で詳述した。
〈250〉「吉太郎17 大家族③」で述べたケースなど。