文字を持たなかった明治―吉太郎18 大家族④
昭和中期の鹿児島の農村を舞台にして、昭和5(1930)年生まれのミヨ子(母)の来し方を中心に庶民の暮らしぶりを綴ってきたが、新たに「文字を持たなかった明治―吉太郎」と題し、ミヨ子の舅・吉太郎(祖父)について述べつつある。
明治13(1880)年生れ、当時数多いた「子だくさん家庭の跡継ぎではない男児」の一人だった吉太郎はどんな人生を歩んだのか。それを探るため、まず家族の状況を見ている(大家族①、②)。前項(同③)では、三男・庄太郎の妻子が加わり、戸籍に4人が追加されたところまで述べた。入手できた中で二番目に古いこの謄本(【戸籍二】とする)には、庄太郎の子供たち3人について興味深い記載があることも。
この子供たちについては3人とも「明治四拾五年五月拾五日 父庄太郎母ヨシ婚姻二因リ嫡出子タル身分取得届出 同日受附」という記載があるのだ〈238〉。庄太郎たちの孫世代である二三四(わたし)の推測はこうだ。
きょうだいの中で、三男の庄太郎と四男の源太郎はほとんど同じ頃に縁談があった。しかし諸事情により源太郎の婚礼が先に整い、婚姻も先に届け出た(明治37年)。その後次々に子供が生まれ家が手狭になった。
兄の庄太郎は別の場所――例えば離れや、妻の実家など――で実質的な家庭生活を営んではいたが、婚姻届出には至らないまま3人の子供が生まれた。そして明治45年になってようやく、長男・仲太郎が治める実家に「合流」し、入籍された――。
ヱダ、藤一、武二の3人についてはそれぞれ「〇〇の妹ヨシが、未認知のまま出生を届け出、受付受理、入籍した」と読める記載がある。〇〇はヨシの生家の戸主で兄の名になっている。こちらのお宅は吉太郎きょうだいの家と同じ集落と思われ、つまり庄太郎はいまふうに言えば、近所の娘さんと「事実婚」していた、ということになろうか。
庄太郎・ヨシ夫婦がすぐに婚姻を届け出(られ)ず、いちばん上の子が7歳になるまで、家族としての実際が役所に記録されてこなかった背景や理由はさまざまに考えられる。
あるいは、それほど深刻なことでもなく、手続きを先延ばしにしていただけかもしれない。なにぶん当時は文字を読み書きできる人が少なく、役所への届出ひとつも誰かに頼まなければならない、という家庭が多かったはずだから。親族はもちろん、集落の人々など周囲も二人をちゃんとした夫婦として扱っていたことだろう。
考えてみれば、戸籍といういわば役所(政府)の管理とそれを維持するための手続きは明治になってから始まったもので、それ以前は文書や届出がなくても、家どうしで、集落などの共同体の中で、人々は夫婦や家庭の形を作り、協力し合って何百年も生きてきた。数年(!)届出が遅れたくらいで気にする人はそう多くなかっただろう。
明治期の戸籍制度の整備は、国家が「家」という単位を通して個々の国民の動向を把握し、富国強兵に役立てるため、という側面があったと思う。国家の事業と関わりなく生きてきた人々は、何世代前からと同様に日々の生活を繰り返していただけ、かもしれない。
〈238〉除籍謄本に記載されているこの個所の「嫡出子タル身分」のあとの二文字は判読しづらいのだが、おそらくここに書いた「取得」だと思われる。なお文中のスペースは原本にはない。