文字を持たなかった明治―吉太郎82 生活の楽しみ(好みの番組)

 明治13(1880)年鹿児島の農村に生れ、6人きょうだいの五男だった吉太郎(祖父)の物語を綴っている。

  昭和の初め、中年の再婚どうしで家庭を持った吉太郎。昭和3(1928)年生れの一人息子・二夫(つぎお。父)には百姓の跡継ぎとして早くいっしょに仕事をしてほしかったが、上級の農芸学校まで進んだ挙句、卒業も近い昭和19(1944)年、両親に黙って陸軍の少年飛行兵に志願、入隊。幸い二夫は復員し、戦後の食糧増産期を経て日本が経済成長に向かう中、同じ集落の娘・ミヨ子(母)を嫁に迎え、一家は四人になった。

 家族が増えても吉太郎の生活に大きな変化はなかったが、モノは少しずつ増え、戦中までなかったラジオも暮らしの中に溶け込んでいた

 日中吉太郎たちは農作業に出るので、一日の中でラジオを聴いている時間がそれほど長いわけではない。それでも吉太郎が好きなのは相撲中継だった。鹿児島出身力士が贔屓で、戦前なら西ノ海(初代、2代、3代)という横綱がいたものの、家にはまだラジオがなく、中継でその活躍を聞くことはなかった。戦後は朝汐や鶴ヶ嶺といった力士が出てきた。昭和4(1929)年生れの朝汐は二夫やミヨ子と同年代ということもあり、より親近感が湧いた。

 もっとも相撲中継は夕方には終わってしまう。昼間が長い季節は農作業からの帰りが遅くなるので中継を聞けず、ニュースで結果を知るしかなかったが、秋が進み日没が早まると、急いで帰ればうしろのほうの取り組みを聞く時間がとれた。天気が悪く外の仕事ができないときは、もちろんじっくり聞けた。

 そもそも嫁を迎えた頃には吉太郎は70歳をとうに過ぎており、仕事はほどほどにしてもいい年齢ではあったが、なにぶん男手は吉太郎と二夫の二人だけなのだから、体が動く限り働くのは当然だと吉太郎は思っていた。もともと趣味というほどのものはなく、働く以外の時間の潰し方も知らないできた。

 相撲以外はとくに好きな番組はなかった。歌謡曲にはあまり興味がなかったが、美空ひばりだけは好んで聞いた。ラジオでひばりの曲が流れそうになると、ハルが「ひばりが歌とど(うとど)」(ひばりが歌いますよ)と吉太郎に声をかけ、吉太郎は囲炉裏端の定位置からラジオに少し近づいて耳を傾けた。

 相撲と美空ひばりという吉太郎の好みは後のちも変わらなかった。そのエピソードは、一家がテレビを購入した時代について綴るときに譲る。

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