文字を持たなかった明治―吉太郎20 大家族⑥早逝する子供たち
昭和中期の鹿児島の農村を舞台にして、昭和5(1930)年生まれのミヨ子(母)の来し方を中心に庶民の暮らしぶりを綴ってきたが、新たに「文字を持たなかった明治―吉太郎」と題し、ミヨ子の舅・吉太郎(祖父)について述べつつある。
明治13(1880)年生れ、当時数多いた「子だくさん家庭の跡継ぎではない男児」の一人だった吉太郎はどんな人生を歩んだのか。それを探るため、まず家族の状況を見ている。「大家族①、②、③、④、⑤」では、手元にある除籍謄本のうち、二番目に古いもの(便宜上【戸籍二】とする)を眺めつつ、もともと6人きょうだいだった吉太郎たち一家に家族が増えていく様を見てきた。
これまで述べたとおり【戸籍二】の構成員は23人なのだが、いまでは考えにくいことも起きている。それは子供の死亡だ。
吉太郎きょうだいの中でいちばん早く妻を迎えた四男・源太郎の最初の子供・キサは、生後2週間もたたずに亡くなったことは「大家族②」で述べた。その後の流れの中では触れていなかったが、源太郎や、次に婚姻の届けを出した三男・庄太郎の子供も亡くなっている。順を追って書いてみよう。
「富吉 源太郎長男 明治四拾年拾弐月弐日生 明治四十参年八月拾五日午後八時死亡」(註:1907~1910年、没年3歳、満年齢、以下同)
「淸 源太郎三男 大正五年拾弐月拾弐日生 大正七年七月拾日午前六時本籍二於テ死亡」(註:1916~1918年、没年1歳。死亡地の記載もあり)
「正雄 庄太郎五男 大正八年拾弐月弐拾八日生 大正九年八月弐拾日午前壱時本籍二於テ死亡」(註:1919~1920年、没年1歳。同上)
つまり、四男の源太郎とチヨ夫婦は6人の子供のうちキサを含む3人を、三男の庄太郎とヨシ夫婦は、8人のうち一人を亡くしたことになる。
生後間もないキサが亡くなったのは明治37(1904)年。16年の間に2組の夫婦から4人の子供が亡くなり、そのほとんどは2歳にもなっていない、というこの家族の例をどう考えればいいのか。一般的には、「衛生や栄養状態があまりよくなかった当時は、幼くして命を落とす子供が少なくなかった。それを考えて多くの子供を産んだ側面もある」ということかもしれない。
ただ、まだ独身だった吉太郎をはじめ、子供の生死を間近で見た家族たちはどう感じていたのだろう。お産自体、産婆さんを呼んで自宅で行っていた時代だ。誕生も死もあまりに日常的で、死さえも「そんなもの」と思えていたのだろうか。
もしそうでも、亡くなった子供たちのひと世代下の二三四(わたし)には、「命の重みがなかった、人権が軽視されていた」と考えることはできない。家じゅうが食べて生きていくだけで大変な時代だっただろうから。
そして、亡くなった子供たちの一人でも生きていれば、その後の一家の動きも変わっていき、二三四はこの世にいなかっただろうと思う。幼くして亡くなったご先祖を思い、いまある生に感謝しつつこんなささやかな庶民史を記すこともまた、なにがしかの意味があることかもしれない。