文字を持たなかった明治―吉太郎48 ささやかな楽しみ


 明治13(1880)年鹿児島の農村に生れ、6人きょうだいの五男だった吉太郎(祖父)の物語を綴っている。昭和の初め、中年の再婚どうしで家庭を持ち、妻ハル(祖母)、ひと粒種の男児・二夫(つぎお。父)と三人暮らしの吉太郎は、働き者であると同時にかなりの倹約家だった。

 吉太郎同様に働き者のハルの支えもあって、吉太郎名義の田畑や山林は増えていき、鹿児島弁でも成功者を指す「分限者」(ぶげんしゃ)と、人から呼ばれるようになっていったことを前項までに述べた。ただし吉太郎自身はぜいたくとは無縁で、相変わらず倹約生活を続けていたことも。

 そんな吉太郎の楽しみといえばタバコぐらいだった。

 戦前のこととて、タバコは刻みタバコである。細かく刻んだタバコの葉を金属製の細長い煙管(キセル)の先に詰めて火を点け、ゆっくりと吸う。そのスタイルは、やがて紙巻きタバコが一般的になったあと――つまり、孫娘の二三四(わたし)が物心つき、「おじいちゃん」の日常を記憶できるくらいになった昭和40年代に入ってから――も、変わることはなかった。

 タバコの葉も、もしかするとハルが育て乾燥させたものだったかもしれない。二三四のおぼろな記憶の中で、近隣の畑には大きな葉っぱをつけるタバコが育っていた。鹿児島民謡「おはら節」が「花は霧島 たばこは国分」と唄うその葉っぱはこれなのか、と二三四は幼心にはっきりと認識した。

 ただし、専売制であったタバコはその葉を栽培する農家も決まっており、どこにでも植えていいものではない、と教えられてもいた。もっとも、あえて栽培に参入せずとも、換金作物はほかにいくらでもあったせいのかもしれない。

 戦前、タバコ栽培への規制がそれほど厳しくなかったのだとしたら、ハルは夫が吸う分くらいのタバコは畑の隅で植えたはずだ。それを上手に乾燥させ刻むくらいの器用さは十分に持ち合わせていた女性だったから。あるいは、一般の農民には「禁制品」だったとしても、こっそり数株植えるくらいの肝の太さはある人だった。

 昭和45(1970)年、日本で初の万国博覧会が大阪で行われ、高度経済成長期のある意味頂点を極めていた年の晩秋に吉太郎は亡くなるのだが、唯一と言っていい遺品はくすんだ金色のキセルだった。そのことを本項を書いていて思い出したのだが、いまはお寺の納骨堂に、いくつかの骨壺とともにそれはひっそりと置かれている。

 二三四が知っている吉太郎の刻みタバコは、近所の食料品兼雑貨店で買ってくるものだった。それより前の歴史をもはや辿りようがないのはしかたがないが、裸一貫から家の基礎を造った吉太郎を知る具体的な手掛かりを、もう少し得ておきたかったと思う。

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