文字を持たなかった明治―吉太郎92 ミカン山の開墾
明治13(1880)年鹿児島の農村に生れ、6人きょうだいの五男だった吉太郎(祖父)の物語を綴っている。
昭和の初め、中年の再婚どうしで家庭を持った吉太郎。昭和3(1928)年生れの一人息子・二夫(つぎお。父)は昭和29(1954)年に同じ集落の娘・ミヨ子(母)を嫁に迎え、一家は四人になった。
昭和30年代に入り日本が高度経済成長を続ける中、消費者の嗜好はどんどん変化し、農家のやり方も変革を求められつつあった。農作物も食後のデザートや間食に適した果物が注目され、吉太郎たちの地域ではミカンの栽培を経営範囲に加える方針が固まり、ミカンの樹を植えるために山林を開墾することになった、と前項で述べた。
そして一家は山の開墾から植樹に数年を費やし、ミカン栽培へと進んでいく。
開墾が始まる頃から開墾作業の様子については、嫁のミヨ子の半生を綴った「文字を持たなかった昭和」の「三十七(山林)」「三十八(開墾1)」「三十九(開墾2)」で、ミヨ子を中心に述べている。ここnoteでミヨ子の物語を綴り始めてわりとすぐの頃に書いたので、最近書いたものとの間に認識差のようなものもあるが、流れとしては概ね同じだ。
ざっと言えばこうだ。土地としては、ミカンの樹によく日が当たる方向の傾斜面を選び、もともと山林に生えていた樹木を伐り出し、根を掘り起こし、整地する。後々の作業のためには斜面を段々畑状態に整えなければならないから、段ごとの土が流れないように石垣を組む作業も必要だ。山林自体は、大人の脚なら吉太郎の自宅から歩いて20分ほどの場所に入口があったが、山は山である。重機や運搬用の車両を入れるための道を造るだけでも大変だったはずだ。
書いただけでもどれだけ重労働かと思うが、最も重要な点は、作業のかなりの部分を人力で行った、ということだろう。
ただ、「開墾」(1、2)を書いた頃は思いつかなかったのだが、ミカンへの転換自体を地域の農家の多くで進めたということならば、作業は同じ山林を有する複数の農家が協力して行ったのかもしれない。重機を借りたりするのも何戸かでまとめてなら借りやすかっただろう。孫娘の二三四(わたし)が思い出す範囲でも、同じ山に複数の農家のミカン畑があった。
あるいは――これは本項を書くまで思いつかなかったのだが――誰かが所有する山を、複数の農家で分割して購入した可能性もある。つまり、ミカンへの経営転換を機に、山林(の一部の区画)を新たに買った、ということだ。
孫娘の二三四(わたし)は「あの山はじいちゃんの代に買った」と教わったから、戦争のずっと前から吉太郎が持っていたと思い込んでいたのだが、所有は戦後の農地改革と農業政策の変化とも関係があったのかもしれない。そのあたりは、同じ山の別の所有者に確認できればわかるのだろうか。
もうひとつ重要な点は、この時期一家はミカン山の開墾「だけ」をやっていたわけではない、ということだろう。当然ながら稲作はする。野菜もイモも植える。そうしなければ自分たちが食べるものがないからだ。「百姓が食べ物を買ってくるなんて」とは、のちに二夫がよく言っていたことだが、それは吉太郎の信念でもあり、当時の農家のふつうの感覚でもあった。
吉太郎がミカン栽培を始めるに当たり最も懸念したのも、おそらくこの点ではなかっただろうか。つまりミカンを始めることで、コメに充てる時間と力がなくなるのではないか、という点だ。
それも当然だろう。封建時代から何百年も、コメはお金とおなじ扱いだったのだから。そして、コメが作れないことは、農家として機能しないこととイコールでもあったのだから。