文字を持たなかった明治―吉太郎47 分限者(ぶげんしゃ)

 明治13(1880)年鹿児島の農村に生れ、6人きょうだいの五男だった吉太郎(祖父)の物語を綴っている。

 このところは吉太郎にとっての嫁・ミヨ子(母)の近況を続けてしまったので〈266〉、明治の物語が中断した。そろそろ戻ることにしよう。

 昭和の初め、中年の再婚どうしで家庭を持ち、妻ハル(祖母)、ひと粒種の男児・二夫(つぎお。父)と三人暮らしの吉太郎は、働き者であると同時にかなりの倹約家だった。こまごまとした支出は、吉太郎同様に働き者のハルが野菜を売るなどして賄う暮らしだった。

 吉太郎にとってもハルにとっても、誰かの口利きでもたらされる臨時の仕事を除けば、農業以外の職業は考えられなかった。一年四季は、子供の頃からの習慣と親たちを真似て覚えたとおりの農作業を繰り返すことで過ぎていった。

 ただし、吉太郎の「自分の土地を少しでも広げたい」という欲求――執念と言っていいかもしれない――は留まるところがなかったから、ある程度のお金が貯まり売ってくれる相手が見つかったら、田んぼや畑、山林のどれでもその都度買う、という行為は続いていた。つまり、財産は少しずつ増えていったが家計的に楽になることはほとんどなかった。

 それに、管理しやすく耕しやすいまとまった面積の土地を手放す人はそうそういない。だから吉太郎が買い集めた田畑は、簡単に言うと「点在」していた。すでに中年を迎えていた夫婦が自力で耕すには限界があったはずだ。その辺りを、吉太郎はどう管理していたのかは、今となってはわからない。

 多産が当たり前で農村の人口も多かった時代だから、自前の土地を持たない知り合いに貸して耕してもらい「上納」を納めさせることで、一定の収入は期待できただろう。それは、五男で家屋敷の相続が叶わない吉太郎自身の若い頃の姿でもあった。そこから這い上がることこそが吉太郎の人生の目標になったであろうことは、ここnoteでも何回か触れた。

 そうやって土地と言う「資本」を少しずつ増やした吉太郎は、ひらたく言えば「分限者」、つまりお金持ちに徐々に分類されるようになっていく。

 そうは言っても、吉太郎自身の生活は何も変わらない。日が出ている間は真っ黒に日焼けするまで働き、暗くなれば寝る。不必要な(と吉太郎が判断する)ものは買わない。というより、昔からの生活様式になじまないものには興味がなかったのだと思う。それは、教育を受けられなかったこととも関係があるかもしれない。教育を受けることは知識を基礎に応用力を身につけることでもあるのだから。

 もっとも、学校に行かなくても、家庭の躾と自身の吸収力と応用力で道を切り拓き出世する人は、明治の頃にはたくさんいた。丁稚奉公から身を興した松下幸之助氏などはその代表例である。吉太郎の場合、生まれも育ちも大人になってからも、農村から出る機会がほぼなかっただけに過ぎない。そしてそんな人生は、当時農山村や漁村に生まれた多くの庶民の一生でもあった。

〈266〉最近のミヨ子さん 介護施設入所後、その一その七
《参考》
【公式】鹿児島弁ネット辞典(鹿児島弁辞典)>ぶげんしゃ

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