文字を持たなかった明治―吉太郎90 経営転換
明治13(1880)年鹿児島の農村に生れ、6人きょうだいの五男だった吉太郎(祖父)の物語を綴っている。
昭和の初め、中年の再婚どうしで家庭を持った吉太郎。昭和3(1928)年生れの一人息子・二夫(つぎお。父)には百姓の跡継ぎとして早くいっしょに仕事をしてほしかったが、上級の農芸学校まで進んだ挙句、卒業も近い昭和19(1944)年、両親に黙って陸軍の少年飛行兵に志願、入隊。幸い二夫は復員し、戦後の食糧増産期を経て日本が経済成長に向かう中、昭和29(1954)年同じ集落の娘・ミヨ子(母)を嫁に迎え、一家は四人になった。
このところは、吉太郎の好物など比較的穏当な話題でその後の一家の暮らしぶりを綴ってきたが、そろそろ大きな変化について述べねばなるまい。それは家業の農業のやり方を変える、つまり経営転換とでもいうべきできごとである。
昭和25(1950)年に勃発した朝鮮戦争を契機に、敗戦後GHQによってさまざまに「改革」された日本の体制や仕組みが微妙に捻じ曲げられたたことは知られているとおりだ。一方経済は、いわばこの戦争特需により急激に回復し、日本は高度成長期へと突き進んでいく。
庶民の生活も消費も、お腹を満たせばいいという段階から、よりいいもの、好みに合うものを選択する段階へ進み、生産者はより多くの選択肢を提示する必要に迫られていく。生産者にはもちろん農家が含まれた。
農家の立場で言えば、とりあえず食料を増産し、まずはコメを十分に供給すること、そしてイモや野菜などの食材や、食品工業の原材料をより多く生産することに注力していた――していればよかった――時期は、あっという間に過ぎ去った。嫁のミヨ子の言葉を借りれば、「農家がちやほやされたのは、戦後のいっときのことだった」。
農業生産者自身の努力の甲斐あって、食料が潤沢に提供されるようになると、消費者はよりおいしいもの、好みに合うものを求めるようになった。それは食品に限らず、すべての消費財に対する需要だったはずだ。
ただ、農業の場合は、昨日まではコメを作り、今日から麦を植える、というわけにはいかない。周到な計画と準備、そして投資が必要だ。
そんな時代の要請と、要請に合わせる技術や手法を、吉太郎は持ち得ていなかった。なにぶん長年、あくまでコメが主力、余力の部分でイモや野菜を作り、無駄遣いをせずこつこつ貯金していれば、生産資本である土地が増えさらに収穫が増えるという循環の中で生きてきたからだ。吉太郎に限らず、同年代の多くの農民は大同小異だっただろう。
しかし世の中は吉太郎たち世代のペースと常識を待ってはくれなかった。――と書くと、AIが生活にどんどん入ってくる令和の今に重なる。どんな時代にも、変化とそれがもたらす速度感があり、少し前の世代はそうそう「ついていけない」ものなのだろう。