文字を持たなかった明治―吉太郎103 二人目の孫
(「102 孫のいる生活」より続く)
明治13(1880)年鹿児島の農村に、6人きょうだいの五男として生まれた吉太郎(祖父)の物語である。
昭和35(1960)年2月、吉太郎の初孫として待望の男児・和明(兄)が生まれたが、吉太郎自身の生活に大きな変化はなかった。もともと晩婚の吉太郎はもう80代と楽隠居してもいい年齢、自分のペースで田畑に出ては跡取りの二夫(父)夫婦を手伝い続けていた。
保育所などまだ整備されていない時代、農作業のとき嫁のミヨ子(母)はまだよちよち歩きの和明をおぶって行き、農作業の間は帯などで結わえて近くの木にくくりつけて遊ばせたりしている。
それを見ても、吉太郎は「自分が子守りしよう」とは思わなかった。子守りは女のすることだからだ。せいぜい煙管のタバコをくゆらしながら孫を目の端で追うくらいだった。もっとも、万が一子守りに協力する気持ちが起きたとしても、ちょこまかと動く小さな男の子の動きに合わせるには、吉太郎は年を取りすぎていた。
和明がようやく乳離れした頃、ミヨ子は次の赤ん坊を身ごもった。出産予定は昭和37(1962)年の5月だと言う。「田植えの頃だな」。吉太郎はちらりと思ったが、こればかりはどうしようもない。
死産だった最初の子から数えると妊娠も3人目、ミヨ子も妊娠中の暮らしに慣れてきたようで、和明のときほど神経質ではなかった。お腹が大きくなっても家事、農作業ともふだん通りにこなし、吉太郎は満足していた。
そして臨月。和明のときは慎重を期して町内に一軒しかない産婦人科で出産したのに、下の子はせっかちなのか、産婦人科まで行くのに間に合わず、地域で昔から頼られている産婆さんが呼ばれた。生まれたのは女の子だった。
「おなごん子か」。跡継ぎとなるべき男の孫はとりあえず「確保」できている。女の孫に、吉太郎はあまり興味はなかった。
下の孫の誕生については、ミヨ子について綴った「文字を持たなかった昭和」でより詳しく述べている(八十四 若葉の朝、八十五 上の子)。(「孫娘」へ続く)