文字を持たなかった明治―吉太郎81 生活の楽しみ(ラジオ)
明治13(1880)年鹿児島の農村に生れ、6人きょうだいの五男だった吉太郎(祖父)の物語を綴っている。
昭和の初め、中年の再婚どうしで家庭を持った吉太郎。昭和3(1928)年生れの一人息子・二夫(つぎお。父)には百姓の跡継ぎとして早くいっしょに仕事をしてほしかったが、上級の農芸学校まで進んだ挙句、卒業も近い昭和19(1944)年、両親に黙って陸軍の少年飛行兵に志願、入隊。幸い二夫は復員し、戦後の食糧増産期を経て日本が経済成長に向かう中、同じ集落の娘・ミヨ子(母)を嫁に迎え、一家は四人になった。
家族が増えたからと言って吉太郎の生活が大きく変わったわけではない。生活の中心は相変わらず農作業で、明るいうちは田畑に出て夜は少しだけ晩酌をして寝る、という暮らしである。
娯楽というほどのものはなかった。嫁を迎えた頃テレビは当然なかったが、ラジオもあったかどうか。のちに生まれる孫娘の二三四(わたし)が子供の頃、少なくとも昭和40年頃には、いまでいう防災放送を兼ねた木製の古めかしいラジオが梁に下がっていた。
ラジオは朝晩の決まった時間に「町(ちょう。自治体)の放送」に切り替わり、いろいろなお知らせが流れるのだが、それ以外の時間は「NHKラジオ第一放送」が放送されていた。つまりチャンネルは一つだけだ。
それでも、毎正時のニュースから、歌謡などの娯楽番組、相撲中継などなどが聞ける。もとより、テレビが普及するまでの庶民の家庭ではラジオがほぼ唯一の娯楽だったはずで、吉太郎一家もそうだっただろう。
木箱を丸くくりぬいたところに布を張り(つまりそこがスピーカーだ)オンオフ兼ボリュームのつまみがついただけのラジオは、おそらく「町の放送」を受信するために全戸に一斉配布されたと思われるが、どの時代に取りつけられたのかはわからない。昭和30年代前半としても、吉太郎たちの「余暇」を十分に彩ってくれたはずだ。
もっとも、ラジオはつけっぱなしではなかった。「町の放送」を聞き逃してはならないので、時間がくればスイッチを捻ったが、お知らせを聞き終わったらスイッチを逆に回してオフにした。聞きたい番組のときはまたスイッチを捻るのだが、日中は田畑に出るのだから、ラジオが点いているのは夕食どきぐらいのものだった。