字を持たなかった明治―吉太郎96 耕運機を買う
明治13(1880)年鹿児島の農村に生れ、6人きょうだいの五男だった吉太郎(祖父)の物語である。
昭和の初め、中年の再婚どうしで家庭を持った吉太郎。昭和3(1928)年生れの一人息子・二夫(つぎお。父)は、戦時中親の意に反して学業半ばで少年飛行兵に志願、入隊入隊したが、幸い復員。昭和29(1954)年同じ集落の娘・ミヨ子(母)を嫁に迎えた。戦後日本が高度経済成長を続ける中、農作物も換金性の高い――流行の、とも言える――果物が注目され始め、吉太郎たちの地域ではミカンの栽培を始めることになり、共同で山林を開墾した。
そんな時期嫁のミヨ子は身ごもる。妊婦ながら開墾作業にも携ったせいか臨月で破水し、長男として生まれるはずだった男の子は死産してしまう》。吉太郎は落胆した。
それでも日常は続く。ミカン畑にする山の開墾に加え、稲作などの農作業も例年どおり続けられた。
開墾を始めてから数年、家族総出で開墾した山はミカン畑として整地され、ミカンの幼木を植樹した。ミカンの樹はまだ細くて低く、育って実を着けるようになるのが心待ちにされていた。しかし、開墾に合わせて山に入る道路も整備したから、ミカン山での作業は開墾当時よりはずいぶん楽になっていた。
その前後に二夫は耕運機を購入する。どの農家も経営範囲が拡大傾向にあり、物の運搬ひとつも、人力はおろか牛や馬などに挽かせるようでは間に合わなくなりつつあった――というか、農協などから間に合わないと言われ、農協が勧める農機具メーカーが農家を回って、「買いませんか」と誘っていた。
この頃には、モータリゼーションの発達に歩を合わせるかのように、農業の機械化も進みつつあった。
これまでに何回も述べているとおり吉太郎は倹約家で、何につけてもお金、とくに大きなお金が出ていくことを嫌った。こつこつ働いて小銭を貯め、まとまった額にしては田畑や山林を買い広げてきたのだ。せっかく働いてお金を貯めても、機械を買うために使ってしまっては、いつまでも財産が増えない。人間はいくら働いても元手はせいぜい食べ物くらいだが、機械は油も食う。
吉太郎は農作業に機械を取り入れることは反対だった。
しかし吉太郎も70代半ば、この家の身代は二夫が担う時代に入っていた。そもそも二夫に家業を継がせるために吉太郎自身がんばってきたのである。地域や農協でちょっとした役員を引き受けるようになった二夫は、自分が時代を先取りしているような気負いもあった。
結局、二夫に説得される形で、吉太郎一家は耕運機を購入した。農機具と言えばヤンマーやクボタなどを思い出す人が多いだろうが、二夫が買ったのは「日ノ本」というメーカーのものだった。当時はかなり普及していたブランドでもあった。いまからすれば古めかしいデザインだが、荷台に大量の荷物を載せられ、牛や馬が引くより早く運べるのは画期的なことだった。
機械化への吉太郎の反対と耕運機購入については、ミヨ子の半生を綴った「文字を持たなかった昭和」の「五十(機械化)」「五十一(耕運機)」で一度触れている。
(「97 耕運機に乗る」へ続く)