文字を持たなかった明治―吉太郎100 出産へ

(「99 今度こそ初孫」より続く)
  明治13(1880)年鹿児島の農村に、6人きょうだいの五男として生まれた吉太郎(祖父)の物語である。

 嫁が嫁ぎ先の「両親」の意向に逆らったり口答えしたりすることなど、少なくとも昭和半ばまではあり得なかった。ことに農村においては。嫁のミヨ子(母)はもともと内気で、何かを言い返したり主張したりするわけではない。

 ただ、舅姑である吉太郎とハル(祖母)から見れば、二人目を身ごもってからミヨ子はいつもより働きが悪くなった。もっともミヨ子にしてみればできるだけ慎重に過ごしていたに過ぎなかった。何と言っても最初の子が死産だったのだから。

 やがてミヨ子は臨月を迎え、産気づいた。ハルは昔から馴染みの、隣の集落の産婆さんのところへ行くよう、息子の二夫(つぎお。父)を促した。最初の子もこの産婆さんが取り上げたのだ。しかし跡取りでもある二夫はとんでもないことを言い出した。
「ミヨ子を花牟礼どんに連れていく」

 花牟礼(はなむれ)どんとは、吉太郎たちが住む小さな町のはずれにある産婦人科の医師の名前だ。鹿児島弁で「どん」は「殿」であり、社会的な地位が高い人や目上の人の敬称だ。お医者さんだから当然「どん」なのだ。

 町はずれと言っても大きな漁港のある隣の市との境で、町役場のある中心街にも近く、吉太郎たちが住む農村地帯よりはるかに開けていた。ミヨ子たち妊婦の健診も、町にひとつしかない産婦人科である「花牟礼どん」で行われていた。

「なんち? 医者どんで子を産んとか」(なんだって? お医者で子を産むのか)
ハルは驚いて、大声を上げた。病人でもないのに病院に行くなんて、考えられない。病気もよほど大病でない限りは昔から伝わった方法で、自分で治す。ましてお産は女にとって当たり前のことなのだから。

 二夫もミヨ子も口答えはしなかったが、最初の子のような死産はもうごめんだ、という気持ちは共通していた。入院のための準備も、こっそり――と言うと言葉が悪いが――進めてあった。身支度を終えたミヨ子をオートバイの後部座席に乗せると、二夫はエンジンをかけた。
「まいっとっ、きばれね」(もう一時、がんばれよ)
とミヨ子を励ましつつ二夫はオートバイを飛ばした。

 そうして、清潔な病院でミヨ子は無事に男の子を出産した。昭和35(1960)年の2月のことである。(出産についてはミヨ子の半生を述べた「文字を持たなかった昭和」の「五十七 二回目の出産」でも述べている)。(「初孫」へ続く)


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