文字を持たなかった明治―吉太郎77 ターゲット

 明治13(1880)年鹿児島の農村に生れ、6人きょうだいの五男だった吉太郎(祖父)の物語を綴っている。

  昭和の初め、中年の再婚どうしで家庭を持った吉太郎。昭和3(1928)年生れの一人息子・二夫(つぎお。父)には百姓の跡継ぎとして早くいっしょに仕事をしてほしかったが、上級の農芸学校まで進んだ。しかし卒業も近い昭和19(1944)年、両親に黙って陸軍の少年飛行兵に志願、入隊。吉太郎夫婦は跡継ぎの安否がわからないまま終戦を迎えたが、二夫は幸い復員、一家は親子三人の暮らしに戻った。

 戦後の食糧増産時代一家で農作業に励むうち、晩婚の吉太郎は70歳を超え、二夫の嫁取りは一家の重要課題となっていた。妻のハル(祖母)の考え二夫自身の好みなどで話が決まらない中、集落のある娘に二夫の気持ちが動いた。

 佐賀の紡績工場勤めから帰ったその娘はミヨ子と言った。前項で述べたように、ハルはミヨ子に対していい印象を持っていなかった。ミヨ子自身にもさることながらミヨ子の生家のほうを問題視したのかもしれない。ともかくミヨ子を嫁にすることには、ハルは反対だった。

 しかし二夫は次第にミヨ子への気持ちを固め、何度も縁談を持ちかけるハルに告げた。
「オレはミヨ子がいい」

 吉太郎は、丈夫で働き者なら誰が嫁でもよかったが、ハルは不満だった。それでも、一人っ子でがまんというものをあまりしたことのない二夫は、少年飛行兵に志願したときのように、ここでも自分の意思を貫いた。と言えば聞こえはいいが、「わがまま」を通したと言ってもよかった。ついにハルが折れる形で、正式に仲人を立てて、ミヨ子の両親に申し入れを行った。

 ミヨ子はミヨ子で、縁談がいくつもほのめかされていた。佐賀という都会から帰ってきた、しかもけっこう美形の適齢期の女性である。集落はもとより町でも目を引く存在だったのだ。その気になれば、安定した勤め人の奥様になる道もあったかもしれないのだが――。

 これら一連の流れは、ミヨ子の半生を綴ってきた「文字を持たなかった昭和」の中でミヨ子の立場からすでに書いている。吉太郎一家からの縁談は「二十七(縁談)」で、二夫がミヨ子にこだわったことは「三十一(白羽の矢)」でそれぞれ述べたので、よろしければご参照ください。

いいなと思ったら応援しよう!