文字を持たなかった明治―吉太郎108  昭和45年

(「時代の変遷」より続く)
 明治13(1880)年鹿児島の農村に、6人きょうだいの五男として生まれた吉太郎(祖父)の物語である。

 初孫の男児、ふたつ下の孫娘と孫にも恵まれた。ときあたかも高度経済成長期、世の中がどんどん変わり、暮らしも便利になっていく時代。昭和45(1970)年には大阪で万国博覧会が催され、会場の中心「お祭り広場」では日本各地の郷土芸能が代わるがわる披露された。吉太郎たちの地域に江戸時代から受け継がれ、県の無形文化財にも指定されている豊年祈願の踊り「七夕踊り」〈304〉も参加した。

 もう90歳の吉太郎自身は、参加はもちろん万博を見に行くことすらかなわなかったが――そもそも鹿児島から万博見物のために大阪まで行く人は多くなかった――一人息子で跡取りの二夫(つぎお。父)は七夕踊りの世話役も務めていたので(も、というのは、ほかにも地域のいろいろな役を担っていたからだ)、踊り子たちを含む数十名で何日か上阪し、ついでに万博も少し見学した。

 帰った二夫から土産をもらい、会場や踊りの写真を見せられた吉太郎は、世の中の変わりように驚くとともに、そんな時代の先端に息子もいるように思えて喜んだ。

 その年の敬老の日。満年齢で90歳になる吉太郎のもとへ、県知事から卒寿のお祝いが届いた。中身は電気毛布である〈305〉。毛布が入った大きな箱は、その大きさに相応しいこれまた大きな熨斗を掛けたまま、長らく床の間に供えられた。

 まだ電気毛布が出回り始めた頃のこと、毛布はいかにも中に「電線」が通っているようなごわごわした感じがあった。吉太郎はそんなものを被って寝たら感電しそうで気が進まず、「婆(ばば)が使えばよかが(おばあさんが使えばいいよ)」と言った。「婆」とは妻のハル(祖母)のことである。

 しかしお祝いされたこと自体はうれしかった。今でこそ100歳を越えるお年寄りは10万人近くいるが〈306〉、当時は80歳で相当に長寿、90歳はまさに県知事からお祝いが届くほどの長生きだったのだ。

 90歳。丈夫で働き者だった吉太郎も、すでに曲がっていた腰はますます曲がり、田畑に出ても農作業するのは難しくなっていた。二夫たちからも「じさん、わが家(え)ぃおらんな(おじいさん、家にいなさいよ)」と言われることが増えた。

 手洗いに行くのも間に合わなくなっていた。当時、鹿児島の民家は湿気と白アリ対策のため床が高く、結果的に上がり框も高くしつらえてあった。それに吉太郎の家はまだ「外便所」で、男性の小用のための壺は大用を足す場所より母屋に近い場所に据えてはあったが「壺」のところまで行くのが間に合わないのだ。そういうときのためにと、吉太郎専用の尿瓶も用意された。(「大往生」へ続く)

〈304〉七夕踊りについては、嫁・ミヨ子(母)の半生を綴った「文字を持たなかった昭和」の「百三十六 七夕踊り、その一」~「百四十 七夕踊り、その五」で画像もつけてかなり詳しく述べた。
〈305〉卒寿祝いの電気毛布については、同じく「文字を持たなかった昭和」の「百七十三 敬老の日――県知事からのお祝い」で述べている。その中でお祝いが届いたのは昭和43年としているのは孫娘の二三四(わたし)の記憶違いだ。
〈306〉2024年の敬老の日に合わせて各報道で発表された100歳以上の人口は95,119人。

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