文字を持たなかった明治―吉太郎40 親子三人
明治13(1880)年生れ、6人きょうだいの五男だった吉太郎(祖父)の物語を続けている。
大正14年の7月、お産が原因で前妻・セキを、続いて産まれたばかりのハツエも亡くした吉太郎は、同じ地域の別の集落からハル(祖母)を二番目の奥さんとして迎え入れた。「婚姻、入籍」は昭和3(1928)年3月、これについては「婚姻」で述べたとおりで、前後してその1週間前に「出生」したことになっている長男の二夫(つぎお。父)も同時に入籍している。
実際には、吉太郎夫婦はその数年前にちゃんと祝言を挙げたことだろう。二夫も戸籍上の出生より1年前に生まれていた〈251〉。だが吉太郎たちの戸籍は相変わらず兄(きょうだいの中では三男)の庄太郎が戸主で、戸籍上の「分家」はまだかなり先のことだが〈252〉、吉太郎は自前の家屋敷をすでに持ち、実生活では独立していたと考えてよさそうだ。
昭和の初め。吉太郎が働きづめに働いて手に入れた家で、吉太郎とハル、そしてまだ1歳の二夫の、三人の生活が始まっていた。
現代の核家族にも似たこの家族構成は長い間変わることはなかった。吉太郎もハルも子供を授かるにはすでにかなり遅く、二人目、三人目の子供は望めなかったからだ。
いや、望めなかったのか、望んだけれども結果が伴わなかったのか、ほんとうのところは孫娘の二三四(わたし)などのちに加わる家族の誰にもわからないところだ。
ただ、ハルが入籍した時点で吉太郎は50歳も間近、ハルも40歳をとうに超えていたから、ハルは二夫を身ごもったときすでに高齢出産の域に入っていた。しかも昭和に入ったばかりのことで、かつ初産である。
当時の女性は毎年のように出産し、子供が10人いる家も珍しくはなかったが、そんな母親は10代後半から子供を産みはじめ、いちばん下の子を産むときやっと40歳過ぎ、というケースが多かった。
とは、身近な多産の例から二三四が学んだことである。いちばん身近な例は、吉太郎にとっての嫁、のちの二夫の妻となるミヨ子(母)の母親・ハツノ(母方の祖母)だ。幼くして亡くなった3人を含む8人の子をもうけたが、いちばん上を20歳そこそこ、いちばん下の子は40歳を過ぎてから産んでいる。
きょうだい10人とまでいかなくても、5、6人はざらだった時代。吉太郎一家は当時としては珍しい少子家庭だったと言っていいだろう。
〈251〉戸籍の記載と実年齢との差については、「ひと休み(戦前の出生届)」で比較的詳しく述べた。
〈252〉除籍謄本を下って見ていくと戸籍上での分家はなんと戦後のことのようだが、それは後日に譲る。