文字を持たなかった明治―吉太郎93 初孫①

 明治13(1880)年鹿児島の農村に生れ、6人きょうだいの五男だった吉太郎(祖父)の物語を綴っている。

  昭和の初め、中年の再婚どうしで家庭を持った吉太郎。昭和3(1928)年生れの一人息子・二夫(つぎお。父)には百姓の跡継ぎとして早くいっしょに仕事をしてほしかったが、上級の農芸学校まで進んだ挙句、卒業も近い昭和19(1944)年、親の意に反し学業半ばで陸軍の少年飛行兵に志願、入隊入隊したが、幸い復員。昭和29(1954)年同じ集落の娘・ミヨ子(母)を嫁に迎え、一家は四人になった。

 昭和30年代に入り日本が高度経済成長を続ける中、消費者の嗜好はどんどん変化し、農家のやり方も変革を求められつつあった。農作物では食後のデザートや間食に適した果物が注目され、吉太郎たちの地域ではミカンの栽培を始めることになり、共同での山林の開墾が始まったが、多くを人力に頼る作業は重労働だった

 家族総出で開墾が続く中、嫁のミヨ子が身ごもった。妊娠が発覚しても産婦人科に行ったわけではない。吉太郎や妻のハル(祖母)たちの世代は、めったなことで病院には行かなかった。そもそも近くに病院がない。たいていの病気やケガは昔から伝わる民間療法で治した。

 まして妊娠、出産は女性にとって「当たり前のこと」で、産気づいたら産婆さんを呼ぶのがせいぜい、それまでは姑や周りの「先輩」たちから、妊娠中の過ごし方や注意点を習い、見様見真似で出産日を迎えていた。

 ミヨ子が身ごもったことは、吉太郎もうれしかった。子供が大きくなったら働き手にもなる。その頃には、自分は生きていないかもしれないが。男の子ならば将来の跡継ぎで、わが家は後の代まで安泰だ、ぜひとも男の子を産んでほしい。

 のちに二三四(わたし)が確認した出産日から逆算すると、妊娠したのは昭和32(1957)年の初夏あたりだろうか。妊娠に気づいた時にはもうかなり暑くなっていたかもしれない。

 その頃はミカン山の開墾の真っ最中で、おめでたがわかる前のミヨ子は、重いものを担いだり力を入れて――もちろん男衆ほどの力はなかったが――地面を掘ったりしていた。

 しかし、お腹に子供がいるとわかればそうもいかない。ミヨ子には比較的軽い作業をあてがった。とは言っても、まだ洗濯機などの家電もない時代、身重であっても家事全般はミヨ子の仕事だ。ハルにしても、周りの「先輩お母さん」たちにしても、お産ぎりぎりまでてきぱきと働き、子供を産んだら少し休んだだけですぐ元の生活に戻ったから、吉太郎たち男衆は「お産とはそんなもの」と思っていた。女性たち自身が「体を動かしたほうが太らないし、お腹の子も育ちすぎないから、お産が楽」と言い、体を休めている妊婦を見ると「だらしない」「ふだんどおりに動きなさい」と叱咤(?)したものだった。

 口数の少ない嫁のミヨ子は、吉太郎たちから言われたとおりに働いた。
 その頃の様子は、ミヨ子の半生を綴った「文字を持たなかった昭和」の「四十(おめでた)」「四十一(おめでたでも)」で、ミヨ子の立場から述べている。

 簡単に言えば、ミヨ子は朝家事を片づけたあと――それには手洗いでの洗濯も含まれた――、弁当を作って山まで行った。昼食後は掘り起こした木の根っこなどを薪として集め、それを担いで帰った。

 もちろん、吉太郎たちはもっとしんどい作業を朝から暗くなる手前までしていた。家族のだれもが、とにかくミカンの樹を植えられるようになるまでは辛抱せねばという一心だった。
へ続く)

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