文字を持たなかった明治―吉太郎106 祖父と孫②運動会
(「祖父と孫①クリスマス」より続く)
明治13(1880)年鹿児島の農村に、6人きょうだいの五男として生まれた吉太郎(祖父)の物語である。
昭和35(1960)年生れの初孫の男児とふたつ下の孫娘が大きくなるにつれ、家の中にも学校や世の中の新しい行事が入り込んでいった。年末には、吉太郎が聞いたこともない「クリスマス」とかいう西洋の行事を家でもやるようになり、吉太郎は面食らった。
しかし孫がいることで楽しいこともあった。孫たちの運動会には吉太郎も妻のハル(祖母)も出かけていった。孫の応援というより、町をあげてのイベントという位置づけで。町内には小学校がふたつ、幼稚園はひとつだ。小さいほうの小学校は山地のほうにあり、大きいほうの小学校と幼稚園(それに中学校も)は敷地が隣りあっていたから、小学校の運動会の一部に幼稚園生の出番があった。やはり町を挙げての一大行事だったのだ。
幸い――というべきだろう――上の孫の和明は運動好きで走るのも速かったから、運動会では活躍した。徒競走でゴールテープを切り一等賞の賞品をもらう孫に、吉太郎も目を細め、これでわが家は行く行くも安泰だ、と思ったことだろう。
いっぽう孫娘の二三四(わたし)は和明ほど運動好きではなく、幼稚園の「かけっこ」も年少組のときはビリで吉太郎をがっかりさせたが、「女(おなご)ん子じゃっで、てげてげでよかとよ」(女の子だから、そこそこでいいだろう)と考えたりもした。もっともそう考えたことは、当の二三四にはもちろん、ハルにも息子の二夫(つぎお。父)夫婦にも話したりはしなかった。
そもそも、家のなかで吉太郎が家族にぺらぺらと話しかけることはなかった。いや、当時の「家長」をはじめとする男性は、威厳をもって上座に座っている存在で、女子供と日常の雑談を交わすなどは考えられなかった、というのが正しい。
そんな風だから、孫たちから見れば「じいちゃん」は近寄りがたかった。とはいえ、無視したりないがしろにしたりできる対象では、もちろんなかった。むしろ、一家の中心、要として尊敬、尊重する対象であることは、物心つく前からいろいろな場面で両親から教え込まれていた。ただ、何を話していいか、どう接していいのかよくわからなかっただけである。
「明治生まれ」なんてものすごく昔の人、というイメージだったのだから(「時代の変遷」へ続く)