つぶやき(モノを聞かれる)
前項で中国系と思われる母子に道を聞かれたことを書いた。
わたしは道以外にいろんなこともしばしば聞かれる。日本でも、中華圏で暮らしていた頃も。話しかけやすいのか、ヒマそうに見えるのか。
先日は、ウォーキング帰りの商店街で初老の――わたしも近いが――女性に呼び止められた。
「この辺りにお勧めの美容院はありませんか?」
あいにくわたしの住んでいる地域に行きつけの美容院はないし、誰かから「〇〇美容室はいいわよ」みたいな話を聞いたこともない。昔住んでいた街の美容院にずっと通っていて、体が動かなくなるまでは「そこ」と決めているので、美容院情報自体興味がないのだ。
心当たりがないと答えると、女性は「急に変なことを聞いてすみません」とやわらかな口調で言い、立ち去った。
もう夕方、あの方は何かの用事でこの辺に来たついでに、髪を整えようと思ったのだろうか。まったく知らない街で急に髪を切りたいと思うのだろうか。それともあとに大事な用事が控えていて、セットして気合を入れようと思ったのだろうか。女性の髪は襟足にかかるくらいで、やさしいウェーブがかかっており、これから美容院に行くというより、いま行ってきたと言ってもおかしくなかった。なんだかちょっとした短編小説が書けそうな数分間だった。
モノがまだ豊かでなかった頃の中国大陸では時間もよく聞かれた。わたしが腕時計をしていたからだ。道を歩いているとき、街頭で誰かと待ち合わせしているとき、いきなり「いま何時?」と腕時計を指さされる。「いま何時ですか」「〇時〇分です」は外国語会話の初級の初級であり、地方訛りがひどい人でもまず聞き間違えない。最終的には時計の文字盤を見せれば大丈夫だ。
中国では、黙って立っていてもいろんなことを聞かれた。たとえば仕事帰りなどにスーツ姿のままホテルのロビーで人と待ち合わせしていたとする。するとホテルのスタッフに見えるのか、「宴会場はどこですか」といった類のことをよく聞かれた。そしてこれは、日本でもたまにある。わたしという人間の存在は周りの空気になじんでしまうのだろうか(つまり個性がない?)。
もっとも中国の人は、気軽にいろんなことを聞いてくる(ように日本人には思える)。まだ日本のアパレルと中国のそれでは品質もデザイン性もかなりの開きがあった頃の、冬の天津の繁華街。わたしは日本製のダッフルコートを着て地元の友人と歩いていた。親子連れの女性がすれ違いざまにわたしのコートを指さし、「それ、どこで買ったの? いくらだった?」と尋ねた。そのときのわたしの答えはもちろん「日本で、(人民元換算すると)だいたい〇〇元」。女性は「日本で、かぁ…。こんなコートが欲しいのよね」と残念そうに立ち去った。
同じような「通りすがりの質問」は、見知らぬ中国人どうしでよく交わすのをたびたび目撃した。モノについて尋ねるときは、値段のことも必ず聞いていた。だからわたしも、中国や台湾でなら、通りすがりの人にいろいろなことを聞く。もちろん値段も。親切な人は目的地近くやお店まで連れていってくれて、ほっこりする。
日本では、見ず知らずの他人に、それは何か、どこでいくらで買ったのか、みたいなことはあまり聞かないだろう。相手の領域に立ち入るようだし、とくに金銭に関することは「はしたない」感覚がある。ただし大阪は違うみたいで、アジアっぽいと言われるゆえんかもしれない(日本はアジアに属しますが)。
いや、周囲の助けを借りづらい雰囲気を、いつの間にか日本(人)自身が作ってしまったのかもしれない。それは、あまりよいことではないように思う。
ちょっとしたことを尋ねられたら、わかる範囲で答える。最近は翻訳アプリのおかげで外国人とのコミュニケーションも劇的に楽になったとよく言われる。できる範囲でできることをやってあげたら、お互い少し幸せだ。わたし自身の来し方は社会に貢献しているとはとても言えないが、ほんの少しは人様の役に立ってきた、のかもしれない。