文字を持たなかった明治―吉太郎55 息子のさらなる進学

 明治13(1880)年鹿児島の農村に生れ、6人きょうだいの五男だった吉太郎(祖父)の物語を綴っている。
  昭和の初め、中年の再婚どうしで家庭を持った吉太郎は、昭和3(1928)年生れの一人息子・二夫(つぎお。父)には、尋常小学校を卒業したら百姓の跡継ぎとして仕事を覚えてほしいと思っていた。しかし、学校の先生も妻のハル(祖母)も、二夫はよくできるのだから上の学校へ行かせたいと言い、やむなく吉太郎は折れた

 2年間の高等小学校が終わる頃。二夫は14歳、日本は昭和17(1942)年の春を迎えつつあった。

 今度こそ息子には百姓仕事に専念してもらわなければならない。前年の暮れに日本は米英相手の大きな戦争へ突入している。食糧の生産を担う農家は、国を根本から支える存在でもある。その重要性がこの先さらに増してくることは、無学の吉太郎にも推測できた。二夫には本格的に百姓仕事を覚えてもらい、増産に一役買ってもらわねば。晩婚の吉太郎自身60歳の坂を越え、若い頃ほど体の無理が効かなくなってもいた。

 ところが二夫はとんでもないことを言い出した。正確に言えば、二夫が直接吉太郎に語ったのかはわからないのだが、二夫が願い出たことの中身は、吉太郎にはびっくり仰天だった。

 それは、さらに上の学校に進学したい、というものだった。

 高等小学校へ通って2年余分に学費を払い、百姓仕事への「猶予」を与えただけでも吉太郎にとっては無駄、損と考えるのに十分だったのに、さらに上の学校? 吉太郎は刻みタバコの吸い殻を囲炉裏に捨てるのに、煙管(キセル)の柄を囲炉裏の縁に叩きつけるようにして大きな音を立てて、不同意の意思表示をした。

 こういうとき筋道を立てて子供を説得する習慣は、吉太郎にはなかったからだ。そもそも子供のしつけは妻のハルに任せきりで、学校のことを息子から聞いたりすることもなかった。

 そのハルは、すでに二夫から「希望」を聞いていたのだろう。またしても「学費はわたしがなんとかしますから」と強気だった。勝気で生活力もあるハルは、じっさい高等小学校にかかった出費も自分でやりくりした。この先の何年かもそうするつもりなのだろう。

「上の学校へ行って、先生にでもなるのか。家の田んぼや畑はどうする」
「上の学校」で勉強したその先と言えば、吉太郎には学校の先生ぐらいしか思いつかなかったのだ。

 しかし二夫の答えは意外なものだった。
「家の田んぼや畑からもっとたくさん収穫を上げるために、学校へ行くんです」

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?