文字を持たなかった明治―吉太郎75 息子の理想

 明治13(1880)年鹿児島の農村に生れ、6人きょうだいの五男だった吉太郎(祖父)の物語を綴っている。

  昭和の初め、中年の再婚どうしで家庭を持った吉太郎。昭和3(1928)年生れの一人息子・二夫(つぎお。父)には百姓の跡継ぎとして早くいっしょに仕事をしてほしかったのに、高等小学校から農芸学校へと進み、卒業も近い昭和19(1944)年、両親に黙って陸軍の少年飛行兵に志願、入隊。吉太郎夫婦は跡継ぎの安否がわからないまま終戦を迎えたが、二夫は幸い復員し、一家はもとの親子三人の暮らしに戻った。

 吉太郎たちは農作業に励んだが、晩婚の吉太郎は昭和25(1950)年には70歳になり、二夫には嫁をもらい跡取りとしての基盤を固めてもらう時期が来ていた。戦後の食糧難時代農家はもてはやされ、いろいろな縁談が来る中で、妻のハル(祖母)は息子の嫁に対して自分なりの考えがあった。

 同じ町内の少し離れた集落から嫁いできたハルは、自分の親戚筋から嫁をもらいたいと思っていたのだ。働き者で、自身もかなり有能なハルの眼鏡にかなうような若い女性はそうそういなかったが、親戚に「これは」と思う女性がいたのだった。吉太郎一家はハルの親戚ともよく行き来していたから、ハルが薦めたい候補が誰なのかは、はっきりわかっていたはずだ。

 しかし当の二夫は、ぐずぐずと具体的な話を遠ざけ続けた。まだ20代半ば、仲間とつるんでいるほうが楽しい時期でもあった。戦争で失った青春を謳歌したい気持ちもあっただろう。いずれ跡を継ぐのだから、独身のうちは楽しいことをしておきたいと思ったかもしれない。

 二夫は友人たちに
「山本富士子ち よかどねぇ」(山本富士子って いいよな)
と言うこともあった。

 昭和25(1950)年、ミス日本の初代優勝者に選ばれた山本富士子が世間を賑わした。富士子はほどなく女優となり戦後ニッポンの「美女」の代名詞となっていく。まだテレビがない時代、二夫はその姿を新聞か雑誌ででも目にしたのか、田舎の庶民も広く楽しむようになった映画で「見初めた」のか。

 いずれ書くつもりでいるのちのエピソードでもわかるのだが、山本富士子のような鼻筋の通った、いかにも美人というタイプの女性が、二夫は好みだったようである。

 じっさいには山本富士子タイプの女性などめったにいない。ことに地方の農村では、いい嫁の基準の第一は体が丈夫なこと、そして働き者であることだ。実家がしっかりしていることも見逃せない。愛嬌があればもっといい。外見はおまけのようなもので、美人かどうかはまったく関係がなかった。

 二夫の理想の高さには、さすがのハルも手を焼き気味だった。

 ところでここ数回、吉太郎というより二夫に照準を当てて述べている。何回か述べているとおり、二夫自身についてはいずれ改めて書くつもりだが、それはだいぶ先になりそうだということと、跡取りの二夫の結婚は、吉太郎と一家にとって極めて重要だったから、やや逸れ気味の話題を続けている点をお許し願いたい。

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